子供のころから、ぼくは1日に2回
そして遊びから帰ると、必ず沐浴をした。母はお湯を銅製の器に入れて持って来て、ぼくの体をこすった。1日に2回沐浴するのはとても良い習慣だ(普通、インド人は朝に沐浴する)。夜寝る前に沐浴をすれば、体が清潔になり、すっきりと快くなる。また、夜寝る前におまいりをすることは心の沐浴だ。体と心が清らかであれば、眠りはどんなに安らかになるだろう。
ある日、ぼくはいつものように遊んで帰って来た。シャツを脱いで、シェンディー(注1)に油をつけ、体を洗うために置いてある大きな石の上に座った。母はごしごしとぼくの体をこすり、残ったお湯をぼくは体にかけた。体を洗ったお湯は野菜畑へと流れて行く。お湯がすっかりなくなったので、ぼくは母に言った。
「お母さん、体をふいてよ。お湯はもうみんな使ってしまったよ。寒いよ、早くふいてよ」
ぼくの子供時代には、村ではタオルもバスタオルもあまり使われていなかった。大人の男の人は、ドーティ(注2)をしぼって体をふいていた。子供の体をふくのには古着を使っていた。夕方には、母は自分の着ているサリーでぼくの体をふいてくれた。
母が、ぼくの体をふいて言った。
「さあ、神さまにお供えするお花を摘んでいらっしゃい」
「足の裏が濡れているよ。泥がつかないように足の裏もふいてよ」
「足の裏が濡れているのが何ですか。何を使ってふけっていうの」
「サリーのすその部分を石の上に広げてよ。その上に足をのせてふくから、それから、びょんと跳び降りるよ。濡れた足に泥がつくのは嫌いなんだ。ねえ、サリーを広げてよ」
ぼくは駄々をこねた。
「わがままなのね、シャム、本当に。いったいどこでそんなおかしなことを覚えたのかしら。さあ、足をのせなさい」
母は自分のサリーを広げてくれた。ぼくは者の上に足をのせてきれいにふいて、石から跳び降りた。母のサリーは濡れてしまったが、ぼくはそんなことは気にもとめなかった。母はその時、サリーを着替えることもできなかった。それでも、子供の足に泥がつかないようにするために、子供の願いをかなえてやるために、母は自分のサリーを濡らしてしまった。母親は子供のためなら何でもするし、どんなことでも辛抱するし、どんな物でも与えるだろう。
ぼくは家の中に入って、神さまにお供えする花を用意した。母は礼拝のためのランプを持って来て言った。
「シャム!足が汚れないようにあなたは気をつけているでしょう。それと同じように心も汚れないように気をつけなさい。神さまに清らかな知恵をくださるようにお願いしなさい」
みんな!なんと味わい深い言葉だろう。自分の体や衣服をきれいにしておくために、ぼくたちはどれだけ必死になり、気をつかっていることか。衣服をきれいにするために洗濯人がいる。くつをきれいにするためにくつみがき人がいる。体を洗うために
「涙の滴をかけることによって、愛の
涙の滴を、何度も、何度もかけて、愛と信仰の蔓を私は育てた、とミーラーバーイーは歌う。このミーラーバーイーの詩の一節を、何度ぼくは口ずさんだことだろう。涙でいっばいになった心にだけ、信仰の蓮の花は生まれる。
注1 シェンディー 当時、ブラフミン階級の男子は、みな頭をそり、一部分だけ残して弁髪にしていた。その弁髪の部分をシェンディーという。
注2 ドーティ インドの男子の衣服。1枚の布を腰にまいてズボンのように形作って着用する。礼拝時には絹のドーティを身に着け、普段は木綿のものをはく習慣がある。