シャムチアーイー 2020/04/19更新

第十夜 ラームラクシャー

ぼくは子供のころ、聖典や神さまの話をたくさん読んだ。しかし、サンスクリットの聖典のシュローカ(詩句)などは、あまり覚えていなかった。父はラームラクシャー(ラーマ神の讃歌)を暗唱することができたが、まだぼくには教えてくれなかった。ラームラクシャーの本さえも家にはなかった。子供のころ、ぼくはラーマ神を信仰していたので、自分がラームラクシャーを暗唱できないのが悲しかった。

 ぼくたちの家の近所に住んでいた友だちのバースカルは、ラームラクシャーの本を持っていた。彼は毎日、1行か2行ずつ暗記していた。夕方になると、バースカルはぼくの家に来て、そのシュローカを暗唱した。それを聞くと、ぼくは自分が暗唱できないのが恥ずかしくて、バースカルに腹を立てた。

 自尊心を傷つけられると、腹が立つものだ。ぼくたちはいつも、自分のまわりにいる人たちと自分とを比較する。その結果、自分の方が劣っているとわかると、腹が立つものだ。背が低くてずんぐりとした人は、背の高いすらりとした人を見ると憎悪を感じる。自分より賢い人を見ると、自分は不幸だと感じる。

 バースカルがラームラクシャーを暗唱できることに、ぼくは嫉妬していた。それにわざと、ぼくがパラワチャー(かけ算の九九のような計算の暗記表)やシュローカなどを暗唱する時刻にやって来て、ラームラクシャーの詩句を自慢げに暗唱した。それでぼくはよけいいらいらした。ぼくを怒らせるために、わざと自慢げに見せびらかしに来たのだと思って、ぼくはひどく腹を立てた。

 ある日、バースカルはぼくに言った。
「シャム!あと、たったの10行暗唱すれば、全部暗記したことになるよ。あと5日か6日のうちに、ラームラクシャーを全部暗唱できるようになるよ。君にはできるかい?」
 ぼくはすぐにカッとして、自分を抑えることができなくなった。ぼくは彼の方へ向かっていって怒鳴った。
「バースカル!今度またぼくをからかいに来たら、ただじゃおかないぞ。君にラームラクシャーが暗唱できることはわかっているよ。そんなに自慢することはないだろ。君は本を持っているんだからね。もしぼくが本を持っていたら、君より先に覚えてしまっていたと思うよ。君は偉大な暗唱家だよ。さあ、自分の家に帰れよ。もう、ぼくの家に来ないでくれ。さもないと、ぶつぞ」
 ぼくが大声で怒鳴っているのを聞きつけて、母が表に出て来た。母はバースカルに尋ねた。
「バースカル、いったいどうしたの。シャムがあなたをぶったの?」
「シャムのお母さん、ぼくはただ、あと4、5日でラームラクシャーを全部覚えてしまうと言っただけだよ。そうしたら、シャムがいきなり怒り出して、ぼくにつかみかからんばかりにして、“ぶつぞ、それがいやだったら、帰れ”って言ったんだ」
 母はぼくの方をふりかえって言った。
「本当なの、シャム?近所の人にそんなことを言っていいのかしら。あなただって、いつも彼の家に行っているでしょ」
 ぼくは腹を立てたままで言った。
「だって、バースカルはわざとぼくをバカにしに来たんだよ。“君はラームラクシャーを暗唱できるかい?”なんて、からかうように言ったんだ。本当かどうか、彼にきいてよ。彼はいい子ぶっているんだから。自分が言ったことは何も言わないんだもの。なんてひどいうそつきなんだろう」
「“ぼくはラームラクシャーを暗唱できるけど、君はできない”と彼は言ったのね。でも、それがどうしてからかったことになるの?彼は本当のことを言っただけでしょ。自分の弱点をつかれたからといって、どうして腹を立てなければならないの?その弱点をなくせばいいでしょ。あなたもラームラクシャーを勉強した方がいいと思って、バースカルはわざとそう言ったのよ。『ラームウィジャヤ』(ラーマ神の聖典)や『ハリウィジャヤ』(ヴィシュヌ神の聖典)は何度も読んでいるでしょ。ラームラクシャーも暗記したらいいじゃないの」
「でも、お父さんは教えてくれないし、ぼくは本を持っていないんだよ」
「バースカルが本を持っているでしょ。バースカルがいらない時に借りなさい。そうでなかったら、その本を書き写して暗記しなさい」
 ぼくは心の中である決心をした。今度の日曜日、ラームラクシャーを全部書き写してしまおうと心に決めた。ぼくは、白い紙を集めて糸でとじて、ノートを作った。ペンも自分で上手にこしらえて、日曜日が来るのを心待ちにしていた。

 日曜日の朝早く、ぼくはバースカルの家に行った。バースカルはたぶん本を貸してはくれないだろうと思って、バースカルのお母さんのところへ行った。そして、ていねいな言葉で言った。
「バースカルのお母さん、バースカルにラームラクシャーの本を、今日1日だけ貸してくれるように言っていただけませんか。ぼくはラームラクシャーを書き写そうと思っています。ぼくもラームラクシャーを暗記したいんです。今日は学校が休みだから、1日中ラームラクシャーを書き写すつもりです」
 バースカルのお母さんはバースカルを呼んで言った。
「バースカル、シャムがこんなに頼んでいるんだから。今日1日だけ、彼に本を貸してあげなさい。彼は本を破ったりはしないわ。シャム、インクのしみなんかつけないでね。気をつけて大事に使ってね。さあ、彼に貸してあげなさい」
 しかし、バースカルは貸したくないようだった。
「今日は学校が休みだから、ラームラクシャーの残っている部分を暗記するつもりなんだよ。彼に本なんて貸さないよ。ぼくが暗記できなくなるもの」
「あなたはどうしても今日でなければならないわけじゃないでしょ。明日か、あさって暗記すればいいでしょ。近所に住んでいるシャムでしょ、どうして意地悪するの。さあ、貸してあげなさい。言うことを聞かないと、知らないわよ」
 お母さんが怒ったら怖いことを、バースカルはよく知っていた。バースカルはふくれっ面をして、本をぼくに手渡した。

 ぼくは本を持って飛ぶように家に帰った。静かなところでひとりになりたかったので、牛小屋に行った。ちょうど牛たちは牧草を食べに外に出ているところだった。インクつぼもペンもノートも、必要なものはみんなそろっていた。ぼくはラームラクシャーを写し始めた。昼ご飯のころには、だいたい書き写し終わっていた。ご飯をすますとすぐにまた、続きを写し始めた。

 やっと書き終わった時、ぼくはどんなにうれしかったことだろう。どんなに満足を味わったことだろう。自分の手で書きあげたラームラクシャー。

 母の両親の家には、『ヴェーダ』についての古い手書きの書物がたくさんあった。はっきりとして美しい文字で書かれていて、どこにも書きしくじりなどないそれらの書物をぼくは見ていた。むかしは宗教的な書物でも普通の本でも、みんな手書きだった。世界中どこででもそういう習慣だったので、文字が真珠のように美しい人は、尊敬されたものだった。その時代、人々は怠けるということを知らなかった。印刷技術もなかったので、本は貴重品だった。今日では、印刷所がいたるところにあり、現代は本の黄金時代といえる。それでも人々の知恵は十分とはいえないし、人々の頭は空っぼのようだ。本がたくさん出版されるようになったからといって、その分生活が向上して文化的になったとか、人々が正直で義務をきちんと果たし、身を惜しまず働き、愛情深くなったとかそういうふうにはみえない。しかし、話をもとにもどそう。

 ぼくはその日、本当に幸せだった。ぼくだけのラームラクシャーを書き写し終えると、ぼくはすぐに本を返しに行った。
「どうしたの、シャム。こんなに早く写し終わったの?」
 と、バースカルのお母さんが尋ねた。
「はい、このノートを見てください。バースカルが午後から暗記をするのに要るだろうと思って。今までずっと書いていたんです」
「まあ、なんてきれいに書いてあるのかしら」
 バースカルのお母さんは、ぼくのラームラクシャーを見て、感心して言った。

 それからぼくは家に帰って、ラームラクシャーをずっと読んでいた。そして、一週間で全部覚えてしまおうと決心した。次の週の日曜日に、父をいきなりびっくりさせてやろうと、心の中で計画を立てていた。毎日、ぼくがどれだけ、くりかえし、くりかえし、ラームラクシャーを読んでいた かは、神さまだけがご存じだ。ぼくは時間を見つけては、手にしたノートを見ていた。サンスクリットの文法は知らなかったが、言葉の意味はとてもよくわかった。そして暗記をするのが、楽しくてたまらなかった。

 やっと、次の日曜日が来た。ぼくはラームラクシャーを覚えてしまっていた。夕方、いつ父が帰って来るだろうか、帰って来たらラームラクシャーを暗唱して見せるのにと、ぼくは待ち切れない気持ちだつた。やがて。家の中にはランプがともり、空には星が輝き始めた。ぼくは庭の中をぐるぐる回りながら、心の中でラームラクシャーを暗唱していた。父は、帰って来ると、手足を洗って家の中へ入った。

 父が尋ねた。 「シャム、パラワチャーやシュローカの暗唱は、みんな終わったのかな」
「はい、みんな終わりました。ぼくがラームラクシャーを唱えるから、お父さん、聞いててくれますか?」
「いつ覚えたんだい、それにだれに教えてもらったんだい」
 ぼくはちょっと得意げに言った。
「バースカルの本を書き写したんだ。それを見て暗記したんだ」
「お前のそのラームラクシャーのノートを見せておくれ」
 と父は感心して言った。

 ぼくはノートを父の前に差し出した。1ページ、1ページに、きれいに線が引かれ、インクのしみなどどこにもなかった。ただ、文字が少しちぢこまっていた。
「よくやったね。文字もきちんとしている。でも、もう少し伸び伸びと書いた方がいいな。ずんぐりとした文字にならないようにしなさい。さあ、暗唱してごらん、聞いているから」

 ぼくはラームラクシャーをすらすらと暗唱してみせた。父はぼくを抱きしめた。その時のぼくの喜びを、どうしたらうまく言い表せるだろう。ぼくは母のところへ行った。
「お母さん、見てよ。ぼくのノート。うまく書けていると思う?今まで見せなかったのは、お母さんに少し腹を立てていたからなんだ」
 ぼくは愛情をこめて言った。

 母が言った。
「あなたがラームラクシャーを書き写したのは知っていたわ。あなたのノートを見たいと、何度思ったか知れないわ。でも、きっと自分から見せてくれると思って待っていたのよ。先週の日曜日に見せてくれればよかったのに。何か良いことをした時に、お母さんに見せなくて、いったいだれに見せるの?悪いことをしたら怒るけれど、良いことをしたら、お母さんはだれよりも心から喜ぶわ。自分の子供がすばらしい子供になっているのを見て、お母さんはどんなにうれしいでしょう。そんな私の喜びを、あなたは一週間も私から遠ざけていたのね。毎日、今日こそシャムはノートを見せてくれる、そうしたら力いっぱい抱きしめようと思っていたのよ。でも、シャムはお母さんに腹を立てていたのね。そうなのね。お母さんにノートを見せてくれないんだもの。でも、もういいわ。ラームラクシャーはもう覚えたの?本がないからといって泣いてばかりいたら、覚えることができたかしら。

 いいこと、私たちには手も足も目もあるわ。自分の力でやってみなければならないのよ。知恵と、やろうという意志のある人は、何だってできるのよ。こんなふうに一生懸命頑張って、大きな人間になりなさい。絶対に人に頼っては駄日よ。でも、そのことで、ひとつ、覚えておきなさい。他の人より自分の方が、何かを上手にできるからといって、おごり高ぶって、人をからかったり、バカにしたりしてはいけないわ。他の人にも自分の持っている物をあげなさい。そして自分と同じようにしてあげなさい」

 こう言いながら、母はノートを手に取った。母は喜んだ。そして満足した。
「この最初のページの上に、ラーマ神の絵があれば、本物のラームラクシャー聖典になるわ。今日、あなたは神さまにとても気に入ってもらえるでしょう。シャム、だって、あなたは自分で努力をして、ノートに書き写し、その詩句を暗記したのですから」