シャムチアーイー 2020/07/26更新

第二十三夜 母の遺言

夜明け近く、母はうわ言を言っていた。その話は取りとめがなかった。

「あのレモンの木に水をやってちょうだい。そうでないと、枯れてしまうわ。あの新しく植えたジャックフルーツの木にも、水をやってね」

 夢の中で、母は植えたばかりの木を見ていた。病気で弱っている時でも、母は木の手入れをし、水をやっていた。虫が葉を食ってはいないかと、調べていた。裏庭には、母の植えた木がたくさんあった。ぼくがダーポリーにいたころ、白檀の木を何本か家に持って帰って庭に植えたことがあった。他の木はみんな枯れてしまったが、母が植えた木だけは枯れなかった。愛情をこめて植えられたから、その木は枯れなかったのだろうか。

「木に水をやってちょうだい」と言ったかと思うと、次の瞬間には、「ほら、ごらんなさい、太鼓をたたいてふれ回っているわ。私の耳をふさいでちょうだい」と言うのだった。

 プルショッタムだけが眠っていた。他のみんなは、母のまわりにいた。みんなの顔は青ざめていても暗かった。まるで、家に死神がきて座っているようだった。

「あの子をごらんなさい、帽子かけの上にシャムが座っているわ。降りなさい、いたずらっ子ね。子供のころの頑固さは、まだなおっていないのね。私に会いにいらっしゃい。お母さんに駄々をこねなかったら、だれにこねるの。でも、もう十分よ。私に会いに来なさい」

 母はうわ言を言い続けていた。

「お姉さん、お姉さん!」
 おばは、母の意識を取りもどさせようと必死だった。

「ナムー、あなたに借りた油をまだ返していないわね。怒らないでね。シャム、いらっしゃいよ、あなたの冷たい手を私の額にのせてちょうだい」

 母の言葉を聞いて、みんなの目には涙があふれた。だれも口を開かなかった。

「あなたのひざが私の名誉です。太鼓をたたいて、破産したことをふれ回っているわ。やらせておきましょう。私にはあなたの足があるし、額にはクンクーもつけています。私の名誉をだれが奪えるでしょう。どんな金貸しでも、私の名誉を奪うことはできないわ。私の名誉は、飾りや家や畑にあるのではないわ。主人の足、主人のひざ、主人の愛の中に私の名誉はあるのです。ください、主人のひざをください」

 と言って母は起き上がろうとした。だれも母を止めることはできなかった。

 父は母の頭をひざの上にのせて座っていた。

「お水、お水を」
 と母が言った。おばが母の口に水を注いだ。

「お姉さん!」
おばが母を呼んだ。母は落ちついた目で、「何でもないの」と手をふって、ぼくたちにこたえた。しばらくのあいだ母は落ちついていた。

「私の頭をひざの上にのせてくれましたか」
 と母が尋ねると、

「ああ、見てごらん。私は君のそばにいるよ。あまり話をしてはいけないよ」
 と父が言った。

 しばらくして、母はまた、うわ言を口にするようになった。

「どうして私に会いに来たの?チャンドリーも来たの?みんな、いらっしゃい。でも、どうして勉強を捨てて来たりしたの?私はいつもあなたのそばにいるし、あなたはいつも私のそばにいるのよ。でも、来てしまったのなら、こちらへいらっしゃい。そんなにすねてはいやよ、シャム。私が粉ひきの仕事を言いつけたから、すねているのね。もう、粉ひきをしなさいなんて言わないわ。もう終わってしまったのよ、シャム。どうしていやだなんて言うの?ごらんなさい、シャムが私の目の前にいるわ、あれは間違いなくシャムよ。みんなにはわからなくても、私にははっきりわかるわ」

 母がこのように、うわ言を言い続けているうちに、夜は明けた。

 プルショッタムにおばが言った。
「ラーダーさんのところへ行って、ヘーマガルバの薬をもらって来てちょうだい。さあ、行きなさい」

 ヘーマガルバの葉は臨終の時、少しでも長く意識を保たせるための薬だ。おばは母の容体に、ほとんど良い徴候をみとめることができなかった。一晩で、母の目はなんと深く落ちくぼんでしまったことだろう。

 その日はサンカシュティー(注1)のチャトゥルティーだったので、父は断食をしていた。しかし、父はそのころでは、穀物を煮たものや乳がゆなどしか口にしていなかった。母が父に言った。

「今日はチャトゥルティーですね。さあ、行って沐浴をしてください。少し乳がゆを食べて行った方がいいわ。自分をあまり苦しめてはいけませんよ。さあ、食べてください」

 とぎれとぎれに、とても苦しそうに母は話していた。

 父は立ち上がり、沐浴をしてお寺へ行った。父は帰りにガナパティー神の聖なる水をもらって来て、母に与えた。

 母はプルショッタムを抱き寄せ、そして、彼の顔をなでながらとてもか細い声で言った。

「坊や、いい子でいるのよ。駄々をこねては駄目よ。あなたには、ガジューとシャムというりっぱなお兄さんがついているわ。サクーおばさんもいるわ。いい子にするのよ」

 母は泣き出したプルショッタムの背中をやさしくなでさすっていた。

「サクー、みんなご飯は食べたの?」
「ええ、すんだわ、お姉さん」
「サクー、子供たちはみんなあなたの子供よ。“母が死んでも。おばがいる”ということわざの通りよ。プルショッタムもシャムもそれからチャンドリーもガジューもあなたの子供よ」 「そうね、お姉さん」

「シャムはつつましいとっても良い子よ。チャンドリーとガジューには神さまがついていてくださるわ」

 母はとぎれとぎれに話していた。

 母はドゥールワおばあさんの方を見て言った。

「私の言ったことや、したことを許してください。忘れてください」

 おばあさんは涙がこみあげてきた。とても長い時間をかけて、母はひとつひとつの言葉を口にしていた。

「サクー、お父さんに謝ってね。私はお父さんの娘です、私を許してください、と言ってちょうだいね」

 母はみんなの顔を見回した。そして目を閉じ、ひと言だけ言った。

「シャム!」

「お姉さん!今日、彼を呼びますよ」

 とおばが言った。それからおばは父に小声で言った。

「僧侶を呼んで、牛を布施としてあげてください」

 人が亡くなる時に、雌牛を布施としてささげる習慣がある。雌牛をもたない場合には、いくらかのお金を牛のかわりに贈るのだった。

 母から僧侶に牛が布施された。

 母はもう話すことができなかった。声が出なかったのだ。目だけは見えていた。母はプルショッタムの体をなでさすっていたが、そうするうちに、母は上の方を指さした。神さまのところへ行くという意味のようだった。とてもゆっくりと、ありったけの力を集めて、母は父に言った。

「体に気をつけてください。無理をしないでください。私はこのひざの上で幸せに……」

 これ以上は言葉にならなかった。

 だれもが黙っていた。母は苦しそうにあえぎ始めた。村のクシャアッパー医師が脈をみて、
「もうわずかの命です」
と、つらそうに言って帰って行った。

 近所に住んでいるジャーナキーおばさんと、ラーダーさんが来ていた。ナムーおばさんも座っていたし、インドゥーもいた。そこには重苦しい静けさが漂っていた。母がもうすぐ死んでしまうことは、もうだれも疑わなかった。

「シャムとチャンドリーには会えなかったな。ガジューには会えたけれど……」
 と父が言った。
「あの子たちのことを考えているの?」
 とジャーナキーおばさんが尋ねた。

 母のくちびるが動いたように見えた。何が言いたかったのだろうか。何か告げたかったのだろうか。しかし、話すことはできなかった。そのくちびるは「ラーム(注2)」と言っていたのだろうか、それとも、「シャム」と言っていたのだろうか。

 ラーダーさんはヘーマガルバの薬を用意し、口の奥に入ってしまった舌に刺激を与えた。
「何か言いたいことがありますか?」
 とラーダーさんが耳に口を近づけて、大きな声で尋ねた。「ないわ」と母は身ぶりで示した。

 家の中には死神が前の日から来ていた。彼は最後の瞬間を待ちかまえていた。

 母は最後の力をふりしぼって言った。
「みんな、元気でね。神さまがついていてくださるわ」

 死の徴候が表れ始めていた。舌はのどの奥に引っ張られ、神さまの家に行く神聖な時がやって来た。ラーダーさんはガンジス川の水を2、3滴、母の口の中に注いだ。トゥラスの葉も口の中に入れた。母は手織りの毛布の上に移された。神さまのところへ行く時には、あらゆる執着を離れねばならなかった。

 静かに時間が流れていた。
 その時、
「ラーム」
 という声が聞こえた。母が「ラーム」と言ったのだ。みんなを無限の海に残したまま、母は逝ってしまった。母は神さまに呼ばれて逝ってしまった。神さまに呼ばれたら、だれも拒むことはできない。

 シャムの母は死んでしまった。父の神聖な宝はなくなり、プルショッタムを庇護ひごする覆いもなくなってしまった。シャムとガジューの人生に勇気を与える、愛にあふれた女神は逝ってしまった。そしてチャンドリーの里もなくなってしまった。この世の苦悩を離れて、母は偉大な母(神)の腕の中に、愛にあふれる温かさを求めて、逝ってしまった。

注1 サンカシュティーのチャトゥルティー ヒンドゥー暦の毎月19日、月が小さくなり始めてから4日目のことで、この日は月が出るまで断食をする。

注2 ラーム ラーマ神のことで、人々は死ぬ前に神の名前を呼ぶ。