ジャーナリスト立花隆さんが2021年4月30日に逝去されていたとの報に接し、これまで立花さんの著書や発言をとおして、多くの刺激を受けながら知的好奇心を高めていたことを思い出しています。
仏教や生命倫理の授業では、脳死、臨死体験さらには宇宙から帰還したパイロットの話など、立花さんの著書はもちろん本人が監修・出演されたテレビ番組などを紹介したことも数多くありました。特に東京大学での授業で実践された『二十歳のころ』を読んだときは、すぐにゼミの授業に取り入れ、身近な方の「二十歳のころ」についてインタビューをし、レポートせよ、という課題を与えたこともありました。
NHKは、6月30日にクローズアップ現代+において、「立花隆・秘蔵の未公開資料・知の巨人が残した言葉」と題し、追悼番組を放映しました。立花さんが膀胱がんであるとの診断を受け、手術をされた後、がんについて講演(2010年3月長崎市)された時の音声が流されました。
自身のがんについて僕はがんばらない。がんばってろくなことはない。
不老不死の人間なんていません。必ず人間100%確実に死にます。
そのことをちゃんと知って こういう意識をきちんと持って
どっかで、そのスイッチを切り替えるということが必要だろうと思うわけです。
立花さんはその後、NHKと「死」そのものをテーマとする番組を作られています。
立花さんの言葉や死に対する関心の高さを伝える番組をみながら、改めて「死すべきわが身の事実」を直視すること、その事実と正面から向き合うことの大切さを説き示さ
れた釈尊の教え、仏教の原点に思いを巡らせておりました。
古代インドの仏教徒たちは、釈尊について多くの物語(仏教説話)を生み出しています。中でも「ジャータカ」という「釈尊がこの世に生まれるより前の生涯の物語」、すなわち「釈尊の前生物語」が有名で、浮彫りや絵画など仏教美術の題材となった物語も少なくありません。「月のウサギ」など絵本で読まれた方もおられるのではないでしょうか。
インドの古代語で伝えられるジャータカの中に、「無常」や「死」をテーマとする物語がいくつか含まれています。いつもそばにいた仲間の僧が亡くなり悲しんでばかりいて修行を怠るもの、父親が亡くなっていつまでも悲しんでばかりいる息子などに対し、釈尊は前世での出来事を語りながら、この世が無常であること、生まれたものは必ず死なねばならないことを説き示されます。
その時釈尊は、「死を念(おも)う」行について説かれます。「死を念う」(古代のインド語でmaraṇasati マラナ・サティ:「念死」とも訳す)とは、「心に死を想い浮かべる」「自分はかならず死ぬといつも心の中で念う」ということを忘れないことです。マラナが「死」であり、サティが「心に念う、想起する」ことです。ペストで多くの人々が亡くなった中世ヨーロッパでは、「メメント・モリ」(死を想え)という言葉、さらにはメメント・モリを題材にした芸術が流行していますが、それよりもはるか以前に、インドの仏教徒は「死を念う」(マラナ・サティ)ことの大切さを受け止め、伝えていたのです。
コロナ禍の真っただ中において、「わがいのち」の在りようと行く方に敏感になってはいますが、コロナ禍の前はどうでしたか。予防や治療法が確立され、コロナ禍が終息したとしても、「死すべきわが身」の事実に変わりはありません。死を念いつつ、ふれあいや支え合いのなかで生かされていることを忘れずに過ごしたいものです。