「その日は土曜日で11日だった」
シャムはお話を始めました。
「ちょっと待って。バルクーがまだ来ていないよ。昨日、彼はバークリを食べずに来ていたんだ」
とシヴァが言いました。
「ほら、ごらんよ。やって来たよ。バルクー、こっちへおいでよ。ここに座れよ」
こう言ってゴウィンダーがバルクーをそばに座らせました。
シャムが話し始めました。
雨季のころだった。コーカン地方はもともと雨の多いところだが、その日も雨がひどく降って、あちこちで洪水のようになって水がゴオゴオと音をたてて流れていた。イルリーと呼ぶ
ぼくたちが学校へ行っているあいだに、家ではヤシュワントの具合が急に悪くなった。彼は2日ほど、耳下腺炎にかかっていたが、この病気はもうなおっていた。ところがまた別の病気にかかったのだった。
その日の早朝から彼のおなかは痛み始めた。痛みはどんどんひどくなり、おなかがふくれ始めた。便も尿も出なくなったが、村のどこにも西洋医学の医者はいなかったし、腸の洗浄もできなかった。家でできる手当て以外には手のくだしようがなかった。ぼくの家の召使いが、ぼくたちを呼びに学校へやって来た。ヤシュワントが、兄やぼくに会いたがっていたからだ。
ぼくたちが学校から帰ると、家にはたくさんの人が来ていた。村のワイッデャ医(薬草を用いたインド独特の伝統的方法で治療する医者)のピタンバルバーイーさんや、クシャアッパーさんも来ていた。弟はもだえ苦しんでいた。おなかがふくれていたが、彼はひどくのどが渇いていた。水を飲むことは禁じられていたので、弟が水さしの方へはって行っても、また引きもどされるのだった。その時、弟は6歳ぐらいだった。前の日に母は弟をしかっていた。庭にチャナダール(豆の一種)が干してあった。山羊が入って来て、豆を食べ始めた。それでヤシュワントは山羊を追い払ったのだが、山羊は口で豆をあちこちに飛び散らせていた。弟は散らばった豆を集めて、きれいにならしていた。ちょうどそこを祖母が見て言った。
「豆を食べているんだね。どろぼう!そしてわからないように、もとの通りに並べているんだね。ずる賢いんだから」
「違うよ、おばあちゃん、食べてなんかいないよ。ぬれぎぬだよ」
今にも泣きそうになってヤシュワントが言った。
その時、母は家の中にいたが、関節の病気で寝こんでいた。歩くこともできない状態で、とても弱っていて、部屋で横になっていた。ヤシュワントは家の中に入って母のところへ行った。すると母までもが彼をしかった。
「豆を食べていたのね。むやみに物に触ってはいけないと、何度言ったらわかるの」
「お母さん!ぼく、本当に豆なんか食べていないよ。どうして、みんなでぼくのことを怒るの」
こう言ってヤシュワントは外へ出てカランバの木の下で泣いた。
これが前の日の出来事だった。しかし今、ヤシュワントは死にそうになっていた。真実を審査する裁きの場へ行こうとしていた。ヤシュワントは裁きを求めるために神さまのところへ行こうとしていたのだろうか。それほどまでに彼の心は傷ついていたのだろうか。
ヤシュワントは助かりそうになかった。9時ごろ、病状はさらに悪化した。
「お母さん!ぼくのそばにいてよ」
と彼は弱々しい声で言った。
「坊や、あなたはお母さんのそばにいるじゃないの」
と母が言った。病気で弱った母は、死にそうになっているヤシュワントの頭をひざの上にのせた。母の目は涙でいっばいになっていた。
「お母さん、ぼくの頭を下におろしてよ。ひざが痛いでしょ。関節が痛いでしょ」
ヤシュワントはかすかな声で言った。
母は悲しみで胸がつまった。
「痛くなんかないわ、坊や。何でもないわ。子供が病気の時は、母親の病気なんてなくなってしまうの。子供の病気をなおすためなら、母親の体には、ないはずの力まで出てくるのよ。ひざなんて痛くないわ。あなたこそ私のひざの骨が当たって痛いでしょう」
ありったけの愛情をこめて母を見つめ、手を握ってヤシュワントは言った。
「お母さん!ぼくのそばに座っててくれるだけでいいんだよ。そばにいてくれるだけで十分なんだ」
ヤシュワントの言葉のひとつひとつが、母やぼくたちみんなの心の中にしみ入るようだった。母は前日の出来事を思い出した。目に涙があふれ、胸がいっぱいになった。母は突然、この死にそうな子供に口づけをした。青自くなったヤシュワントの清らかな顔は母の涙で濡れた。その時、ヤシュワントは愛情に満ちた目を開き、心からの尊敬と愛情をこめて母を見た。
それから少しして、ヤシュワントは「さようなら」と言ってぼくたちを残して永遠に逝ってしまった。
母はいつも言っていた。
「ヤシュワントは心の清らかな子供だった。だから。
子供のころ、空を眺めて、あの星はヤシュワントの星に違いないと、ぼくたちは星を指さしながらお互いに言ったものだ。「心の清らかな人は空の星になる」と父はよく言っていたし、ぼくたちもそう信じていた。
今はもう、ヤシュワントも母もいない。しかし、弟が死んだ時の母と弟の真実の愛情は、決して消えることはない。このようなすばらしい弟とすばらしい母がぼくにはいた。ぼくは幸せだと思う。この二人のつめのすじほどの価値もぼくにはない。ぼくは駄目な取るに足りない人間だ。しかし、ぼくの中に何か良いもの、何か愛に満ちたものがあるとすれば、それは母思いの弟と、子供の性質を高めるあのすばらしい母のおかげだ。このような母や弟をもつには、前世での良い行いが必要だ。たくさんの、たくさんの良い行いが必要だ。良い友達を得るのに高い徳が必要なように、すばらしい両親やすばらしい兄弟を得るのにも、高い徳が必要だ。でもぼくにそんな徳があるなんて思えない。それはきっと神さまからの贈り物だったのだろう。