ぼくの家ではそのころ、雌牛が子供を産んだ。家では、その牛が出す濃い乳でカルワス(牛の初乳で作るプディングのようなお菓子)を作った。母はぼくのことを思い出していた。ぼくはカルワスが大好きだったからだ。ぼくが小さいころは、ラーダーという名の乳しぼりの娘が、ぼくのために、よくカルワスを持って来てくれたものだった。
「だれかダーポリーの方面に行く人があったら、シャムにこのカルワスを持って行ってくれるよう頼むのですけれど」
と母が父に言った。
「だれかついでの人があったらだって?私が自分で行くよ。わが家の牛の濃い乳で作ったカルワスだから、シャムはきっと喜ぶよ。明日の朝早く起きて、私が自分で持って行くよ。でも、どんな容器に入れてくれるんだね?」
「この1シェール(約1リットル)入りの容器に作りますから、そのまま持って行ってください」
母はすばらしいカルワスをこしらえた。カルワスの入ったその容器を持って、父は徒歩でダーポリーに向かって出発した。
学校では昼休みの時間だった。かごに閉じこめられていた小鳥たちは、外へ出て羽をのばしていた。閉じこめられていた子牛たちは外を自由に歩き回っていた。改良種のマンゴーの木はずいぶん下の方から枝が出る。それらの枝は地面にくっつきそうだった。まるで、母なる大地に抱きついているかのようだった。昼休みになると、子供たちはそのマンゴーの木の上でかくれんぼをして遊んだ。まるで猿のようになって、元気よくとび降りていた。
子供たちは、あちこち歩き回っていた。家から持って来たお菓子を食べている者もいた。木の枝に腰かけて、歌をうたっている者もいたし、枝をゆすっている者もいた。遊んでいる者もいれば、木の下に寝ころんでいる者もいたし、教室に残っている者もいた。
ぼくは友だちと一緒に木の下に座って、詩のしりとり合戦をしていた。ぼくの組はいつも勝っていた。ぼくはたくさんの詩を覚えていた。詩集を一冊全部、ほとんど暗記していたほどだった。サンスクリットのストートラ、ガンガーラハリー、マヒムナなど(いろいろな詩の形式)を覚えていた。それにぼくは、自分で詩を作るのが好きだった。オウィー(詩の一形式)なら、とても早く作ることができた。オウィー、アバンガ、ディンディーやサーキーのような簡素な韻律法は特殊なもので、これらは純粋にマラーティー語の古典的な韻律法である。ぼくが一人で、他の子供たちがみんな相手方にまわっても、ぼくは勝つことができた。子供たちはふざけて、ぼくのことを少年詩人と呼んでいた。
ぼくたちは詩のしりとり遊びに熱中していた。
「シャム!だれかが君のことを捜しているよ。シャムはどこだろうと言って、聞いて回っているよ」
その時、父がぼくを捜しながら、こっちにやって来た。
「お父さん!どうして、ここに来たの?もうすぐ鐘が鳴るよ。家で会うことだってできたのに」
ぼくは父のみすばらしい身なりを見て、恥ずかしくなった。英語を勉強する子供たちのあいだで暮らしていたぼくは、何が本当に大切なのかはまだ理解していなかったくせに、りっぱな身なりをすることの大切さばかりを理解し始めていた。
6コースの道のりをはるばる歩いて来た父の愛が、ぼくには見えていなかった。ぼくは目が見えなくなっていた。教育のおかげで、心が豊かになるどころか、心が狭くなっていた。教育のおかげで、心の目が開くどころか、ますます見かけばかりにとらわれるようになっていた。物事の本質を見きわめる力を、教育によって得るどころか、外観にまどわされるようになってしまっていた。
他の人々の心をわからせることもなく、他の人々の心の真実の世界を見せることもない教育は、教育とはいえない。それぞれの事物、それぞれの人間は、それ自体、知恵の源だと知らなければならない。すべてのものの中に、神聖で崇高な世界があることを見きわめられるようにならなければならない。このことが少しもできない限りは、受けた教育は無駄だったことになる。心の成長は、人生に美とやさしさをもたらすために重要なものである。
6コースの道のりを、父は歩いて来た。どうしてだろう?カルワスを子供に持って来るためだ。なんという大きな愛情だろう。その愛情にとっては、骨折りさえ喜びと感じられていた。本当の愛情とは、そのようなものだ。真実の愛をもつ人は、限りない骨折りや苦難や心配も、美しく快いと思うものだ。ぼくは子供のころ、このような聖なる愛を身に受けていた。しかし、今では、ぼくは自分の両親が与えてくれた愛情にさえ欠点があったことを知っている。両親が、自分の村のだれか貧しい子供に、カルワスを分けていたらよかったのにと思う。だれかハリジャン(注1)の子供に分けていたらよかったのにと思う。近所の子供たちもシャムも同じだと、どうしてぼくの両親は思わなかったのだろう。どうして、特殊の形、特殊の色、特殊の名の、ある特定の子供だけが、自分の子供だと思うのだろう。
しかし、この崇高なものの見方は、一朝一夕にできるものではない。人間は少しずつ成長する。執着の人生から、執着を離れた人生へと向かう。ぼくの両親は、ぼくに無限の愛を与えていた。それで、わずかではあるが、ぼくは愛を人にふりわけることができるんだ。ぼくの中の愛情の種は、そのころまかれていた。ぼくが今もっている愛情は、その種から出た芽だ。ぼくが気づかないうちに、両親さえ気づかないうちに、両親はぼくの人生に、ぼくの心の庭に、やさしく愛情深い感情の苗を植えたのだった。だから、今日、ぼくの人生にはわずかながら喜びもあれば、香りもある。荒れはててもいなければ、不毛でもない。
子供たちはぼくを笑うだろう。「あの人が君のお父さんだって?なんてひどいターバンをまいているんだろう。なんてみすぼらしい上着だろう」と言ってぼくをからかうと思うと、ぼくはつらかった。ぼくは父の心を思いやることができず、自分のことばかり心配していた。自分の評判のことばかり気にしていた。
ぼくたちはみな、自分についてのヴェーダ(聖典)しか持っていない。ぼくたちは第二のヴェーダも、第三のヴェーダも、第四のヴェーダも知らずに、たった1つのヴェーダに頼っている。そのヴェーダの名はアハム(自分)である。ぼくたちはいつも自分のことばかりを考えている。自分の心、自分の幸せ、自分の威光、自分の評判、すべて自分のことばかり。だから、ぼくたちは大きな人間になれないのだ。自分自身のことを忘れることのできない人が、どうして人を愛することができるだろうか?
父が言った。
「シャム、お母さんが、お前のためにカルワスをこしらえてくれたんだよ。友だちと一緒に食べなさい」
父はカルワスのはいった入れ物をぼくに手渡した。他の子供たちはバカにしたように笑っていた。ぼくは恥ずかしかった。
「シャム、見ているだけで何になるんだい?食べてしまいなさい。何を恥ずかしがっているんだ?みんなも来て、一緒に食べてください。シャムはひとりで食べるのが恥ずかしいのでしょう。そうでなくても、1人では食べきれません。みんなで食べてください」
他の子供たちは散ってしまい、ぼくと親しい友だちだけが残った。1人の勇気ある友だちが前に出て、入れ物を包んでいた布をほどいて言った。
「おいでよ、シャム。みんなで食べてしまおうよ」
ぼくたちは、カルワスを食べ始めた。
父はわきに離れて、横になった。父は本当に疲れていた。父はカルワスを食べなかった。ぼくたちがすすめると、
「君たちが食べなさい。子供たちが食べるからこそ楽しいんだから」
と父は言った。
ぼくたちはカルワスを全部食べてしまった。とても上手に出来ていた。父は少しのあいだ眠っていたが、始業の鐘がゴーン、ゴーンと鳴ると、目を覚まして言った。
「食べてしまったかい?容器を持って来なさい。川で洗って来るから」
ぼくは入れ物をそのまま父に手渡した。
「しっかり勉強するんだよ。健康に気をつけなさい。牛の子供はとても元気だ。雄の子牛だよ」
こう言って父は去って行った。
ぼくは自分のことが恥ずかしくなった。こんなに愛情深い両親に対して、ぼくはなんて恩知らずな息子だと思った。それはすんでしまったことだったが、ぼくの心はいつまでも落ち着かなかった。6コースの道のりを、ただカルワスを届けるためにだけ歩いて来た父と、父を送り出したやさしい母。この2人の愛情に、ぼくはどのように報いたらよいのだろう。もしもぼくが世の中のすべての兄弟姉妹たちに、公平な愛を分けることができたならば、少しは報いたことになるだろうか。
注1 ハリジャン “神の子”という意味のこの呼び名は、インド独立の父ガンディーが不可触民を呼ぶ時に使い始めた。不可触民とは、マハール(掃除人)、マーング(縄作り職人)、それにチャンパール(皮革工)などが含まれ、アウト・カーストとして位置づけられている。彼らはヒンドゥー寺院に入ることも、カースト・ヒンドゥーの使用する貯水池、井戸を使うことも許されなかった。