その年の初めはよく雨が降ったが、後には降らなくなった。種まきはすんでいたが、だんだん畑の上が乾き始めた。水路の水もなくなり、野原の草も枯れ始めた。人々は心配になった。農民は雨が降らないものか、どこかに黒い雨雲が見えないか、と空を見上げていた。雨は大きな恵みである。雨のおかげで、世界は生き続ける。雨が降らなくなれば、すべてのものは滅びる。生命は水を必要とする。
水には、なんという美しい名前が与えられていることだろう。水に「アムルタ(不死の飲み物)、「パヤ(乳)」、「ジーワン(生命)などの美しい名前を与えた先人たちに、ぼくは敬服する。水をアムルタと呼ばずして、何をアムルタと呼べばいいだろう。しおれた花に少しの水をふりかけ、日照りで元気のない木に散水し、枯れそうな草に露を何滴か落とせば、生命にどれほどみずみずしさがよみがえるか見てみよう。死にかけているものにさえ、生命を与えるのが水である。水を少し飲めば、すぐに疲れは消え、元気が出てくる。ヴェーダ時代の聖人は、水のことを「マーター(母親)」と呼んだ。母親は子供に乳を与える。しかし、乳よりも水は貴いものだ。水は常に必要だ。水は生まれてから死ぬまで欠かせない。水は子供をいつくしむ母親のようだと、ある聖人はいっている。水ほど生命力を与えるものが他にあるだろうか。水は神さまの性質そのもののようだ。
その年は雨が降らなかったので、作物は育たず、
お寺は、たくさんの人々でこみあっていた。ルドラの重々しい響きがこだましていた。ルドラはとても荘重で輝かしく、崇高だった。
詩人、つまり、その聖人の眼前には、全宇宙があるようだった。すべての自然が、彼の眼前から急ぎ足で去って行くようだった。宇宙の中の、人類に必要な物すべてが、彼の眼前にあるようだった。聖人はまるで宇宙全体と一体になっているかのようだった。
ぼくの父はルドラを唱えることができた。父の割り当ては、夜の12時以降になっていた。
母がぼくに言った。
「さあ、お寺に行きなさい。水を運ばなければならないんでしょ。早く行きなさい」
「あんな大きなつぼは持ち上げられないよ。つぼも、かめもなんて大きいんだろう」
「それならカルシー(水を運ぶための小型のつぼ)を持って行きなさい。そうでなかったら、タンビャー(水さし)でもいいわ。井戸でタンビャーに水をくんで、お寺に持って行って、神さまに注ぎかけなさい。ガナパティーの井戸なら、降りて行くのも簡単でしょ。階段がまっすぐですからね。さあ、このタンビャーを持って行きなさい」
「こんなに小さなタンビャーを持って行って、どうしろっていうの?今にお母さんは、小さなじょうろや、コップを持って行けって言うんだろ。ぼくを見たら、みんなが笑うよ」
ぼくは不機嫌になって言った。
「シャム、だれも笑ったりはしないわ。反対に、あなたが大きなつぼを持ち上げようとしたら、みんなは笑うでしょう。自分の力以上のことをするのは悪いことです。でも、自分にできることをしないで、怠けているのも、悪いことよ。これは村全体の仕事なのよ。ルドラを唱えることができないのなら、水を注ぎかけなさい。自分にできることをして、この仕事に参加しなければいけません。みんなが力を合わせなければならないのよ。仕事から逃げるのは悪いことよ。
クリシュナがゴーワルダン山を持ち上げた時、すべての牛飼いたちは、それぞれの杖を使って加勢したわ。みんなの力は同じだったかしら?シャムもこのお話を読んだことがあるでしょ。でも、あなたは本を読んでも無駄のようね。そんな読み方じゃ何にもならないわ。あなたの知識は、何の役にも立たないわ。ラーマ神が橋を作った時にも、こんな話があるわ。マールティー、スグリーワ、アンガダなど、すべての大猿たちは、山を持って来たわ。この橋を造ることは、ラーワンという魔物を退治するための神聖な仕事だったわ。全世界の幸せのためだったのよ。だから、だれもが、この仕事に参加するのは良いことだったわ。小さなリスも、ラーマの橋造りの手伝いをしたいと思ったの。砂地に身をころがして、砂の粒が体や毛につくようにして、その砂粒を橋のところでふりまいたの。そこへ行って、リスは体をゆすって砂をふり落としたのよ。リスは自分の力にみあった仕事をしたわ。
つぼを持ち上げることができないならば、カルシーを持って行きなさい。カルシーでも疲れるようだったらタンビャーにしなさい。それでも疲れたら、コップに水を入れて持って行きなさい。さあ、シャム、行きなさい。何回言えばいいの」
とうとうぼくは立ち上がって、小さなカルシーを持ってお寺に行った。たくさんの子供たちが、シャンカラ神の像に水を注いでいた。お寺ではルドラが唱えられていた。それは荘厳な光景だった。ぼくよりも小さな子供たちでさえ。タンビャーで水を運んでいた。
1人の僧侶がぼくに言った。
「シャム、今日は来たようだね。君は英語を勉強しているから、こんなことをするのが恥ずかしかったんじゃないのかい?」
ぼくは何も言わなかった。
小さな子供たちは水を運びながら、マントラを唱えていた。サンスクリットのマントラではなくて、マラーティー語のマントラだった。
サーンブ サダーシヴァ、雨をください
畑の作物を実らせてください
4シェールを1パイサで売らせてください(豊作にして、安く作物を売らせてください)
これが子供たちのマントラだった。雨が降りますように、作物が実りますように、作物が安くなりますようにと。子供たちは神さまにお祈りしていた。
ぼくは初めは恥ずかしかった。サンスクリットのルドラは知らなかったし、この子供用のマントラを唱えるのも恥ずかしかった。しかし、その子供たちの熱心さに接して、ぼくは恥ずかしさなど忘れてしまっていた。ぼくも大きな声で、「サーンブ サダーシヴァ、雨をください」と唱え始めた。ぼくもその子供たちの中に溶けこんで、そして、彼らと一緒に踊り始めた。
みんなで協力してしなければならない仕事の中では、自分にできることを一生懸命にしなければならない。そこに何の恥ずかしさがあるだろう?アリはアリなりに仕事をしなければならない。ゾウはゾウなりに仕事をしなければならない。