シャムチアーイー 2020/06/21更新

第十九夜 さよなら、お母さん

 ぼくは、勉強のためにアウンダ州に行っていた。しかし、神さまはそこからぼくを追い出そうとしていた。ぼくはアウンダでなんとか毎日を過ごしていた。けれども、それについて詳しくは話さないつもりだ。貧しい人々はみな、そんなふうに日を送らねばならないものだから。ぼくは母の思い出を話しているのだから、その思い出に関係のあることだけを話そうと思う。

 プーナにいるおばのところで、一番下の弟、サダーナンダは暮らしていた。彼は、むかし死んだヤシュワントの生まれ変わりだと、ぼくたちは思っていた。しかし、そのサダーナンダも、プーナでペストにかかって突然死んでしまった。

「ほら、見てよ。神さまがぼくを呼んでいるよ」
 と言って弟は死んでしまった。

 ぼくが暮らしていたアウンダでも。ペストがはやり始めた。かわいいサダーナンダは死んでしまった。そして、シャムは遠いところでひとりぼっちだ。しかも、そこでもペストがはやっていると聞いて、母は死ぬほど心配していた。

 サダーナンダの死の悲しみもまだ生々しく、どんなに日がたっても、母の目から涙が消えることはなかった。それでも、少しずつ悲しみもいえ始めていた矢先、今度はぼくの心配が母を苦しめ始めた。母の人生はいつも心配の連続だった。

 ペストのために、アウンダの学校は閉鎖され、そして他の町から来ていた学生は、州外に出て行くように命じられた。ぼくはどこへ行けばよかったのだろう。お金も持ってはいなかった。

 ぼくは、母が持たせてくれた毛布と何冊かの本を売って5ルピーのお金を作り、アウンダを後にした。2か月か3か月のあいだ、学校は閉鎖されるらしかった。

 ぼくはハルナイ港で下船し、牛車を雇ってパールガドの村へ帰って来た。村に着いたのは夜明けごろだった。ワダの木にタカが何羽か来ていて、大声で鳴いて、村の人々を起こしていた。あちこちで朝の祈りの歌や。ヴェーダを唱える声が聞こえていた。

 ぼくを見たら、母は弟のことを思い出して泣くのではないかと心配していた。ゆっくりとした足どりで、ぼくは庭に入った。家の中では、母がバターミルクを作りながら、静かな声でクリシュナの歌をうたっていた。甘く、快く、愛情にあふれる歌だった。


ゴークルで、君はヨーグルトとミルクとバターを食べていた
しかし、君が最高の神であることをだれも知らない
ただひとり、ラーダーだけが、君に夢中だ
「クリシュナ神よ、私は心ゆくまであなたに会った」
とラーダーは言った


 ぼくはヴェランダに立って、その歌を聞いていた。扉を押す勇気が出なかった。しかし、いつまでも立っていることはできない。とうとうぼくは扉をたたいた。
「ぼくです、シャムです」
「シャム!ああ、私の坊やが帰って来た。今、そちらへ行くわ」
 こう言いながら、母は急いで扉を開けた。母はぼくを抱きしめた。

「神さまにナマスカールをしなさい。先に黒砂糖をお供えするわ。さあ、座って。とても会いたかったわ。神さまがサダーナンダを連れて行かれたわ。もうひとりの子供にも会えないのではないかと思っていたのよ」
 こう言って、母はのどをつまらせた。そして、ぼくも泣き始めた。

 父は手洗いに行っていたが、父が庭に入って来るとすぐに、母が言った。
「私たちのシャムが帰ったのです。ほんの今、帰って来ました」
 父が足を洗って家の中に入ると、ぼくは父にナマスカールをした。
「シャム、私はガナパティー神に何度もマントラを唱えていたんだよ。とうとう帰って来たんだね。元気なんだろうね……サダーナンダは死んでしまったよ」
 と言って、父は目をおさえた。

「ベッドで少し眠りなさい。外は寒いわ。さあ、休みなさい」
 と母が促した。ぼくは服を脱ぎ、うがいをしてから母のベッドにもぐり込んだ。母のサリーで作ったふとんをかけると、まるで、母の愛そのものをまとってっ母のそばで眠っているような気がした。

 その日、母のベッドで寝た感触、母のふとんで寝た心地よさをぼくは今でも覚えている。夜、ベッドの中にいる時、母の腕の中で寝ているように思うことが何度もあった。母の手がぼくを抱いていると思って、ぼくは何度泣いたことだろう。

 ぼくは家に帰って来て以来、弟のプルショッタムに、アウンダであったいろいろな出来事を話して聞かせた。プルショッタムも、家であった事、村で起きた事件を話してくれた。こうして毎日が過ぎていった。

 もう、おおよそ1か月が過ぎていたが、アウンダの学校は閉鎖されたままだった。

 しかし、父にはそれが信じられなかった。むこうでぼくがうまくやっていけないので、何もかも投げ出して逃げて来たのではないかと、父は考えるようになった。そんな疑いが父の心の中で強くなっていた。

 ある日の夜、ぼくはプルショッタムと話をしながら、ベッドに横になっていた。2人の兄弟は1つのベッドに仲良く寝ていた。プルショッタムは、ぼくの話を聞きながら眠ってしまった。そして、いつしかぼくも眠っていた。

 しかし、突然、ビクッとして目が覚めた。どこか高いところから落ちた夢を見たのだった。目が覚めた時、父と母の話し声が聞こえてきた。

 母は、明日のご飯のおかずにしようと、豆をさやから取り出していた。父もそれを手伝っていた。
「シャムは、むこうで勉強についていけないから、帰って来たんだろう。ペストという口実が見つかったからね。まだ。学校が始まらないなんて信じられないよ」
 と父が言った。
「どうして、あの子がうそを言いますか。あの子はあちらで、たいへん苦労をしています。それでも、学校へもどって行くでしょう。ここで、ただ食べるだけで日を送ったりはしませんよ。私もそれは許しません」
 母はぼくをかばっていた。
「あの時、鉄道会社に就職させておけばよかったんだ。今時、仕事なんてどこにもないじゃないか。それでも、君たちは承知しなかったんだ」

「でも、あの子はまだ仕事につきたくなかったのです。彼は勉強しますよ。ここから出て行きますよ。家でごろごろするだけの役立たずにはならないわ」

「君は子供たちのことをいつもいい子だと思っているんだね。結局は私の言っていることが正しいとわかるだろう。むこうでうまくやれずに、帰って来たんだ。いつかは、露見するだろう」
 父は自分の考えを言い続けていた。

 ついに、ぼくは我慢できなくなった。ぼくはベッドに起き上がって言った。

「お父さん!ぼくは盗み聞きしたんじゃないよ。急に目が覚めたんだ。お父さんの言っていることを聞きました。明日、ここから出て行くよ。ペストがはやっていようがいまいが、お父さんがぼくを信用してくれないのに、どうしてここにいられるでしょう。ぼくはただ食べて、無駄に過ごすためにここに帰って来たんじゃないよ。ペストがはやっていても、ぼくはむこうにいるつもりだったんだよ。行ったり来たりする費用がかからないからね。でも、よその町出身の学生は、アウンダにとどまっていてはいけないと命じられたので、帰って来たんだ。お母さん、ぼくは明日、出て行くよ」

「お父さんのおっしゃることを気にしてはいけないわ。あの町のペストが下火になるまで待ちなさい。それから行けばいいわ。シャム!お願いだからこの無学なお母さんの言うことを聞いてちょうだい」

「ぼくは待てないよ。明日、ここからぼくを送り出してください。お父さん、もう一度だけ10ルピーください。お願いします。お母さん、心配しないでください。神さまに守られている人間を、だれが殺したりするでしょう。生きるべき人間ならば、伝染病のはやっているところでも、神さまは生きのびさせてくださるよ。無限の海の中でも、守ってくださるよ」

「あなただって、お父さんの子供なのよ。子供のころからの頑固な性格は少しもなおっていないのね。さあ、さあ、どこにでも行きなさい。元気で暮らせるのなら、それでいいのよ。どうして神さまは、私の目をつぶらせてくださらないのでしょう。かわいい大事な子供たちは連れて行ってしまわれるのに、私をまだ泣かせようと思って、地上に置いておかれるのね」

 母は泣きながら言った。

 次の日の朝、ぼくは母に言った。
「ぼくはやっぱり行くことにするよ。今日、行かなくても、遅くとも1か月後には行かなければならないんだ。許してください」

 ついに母は承知してくれた。母は自分の望みを人に押しつけたりはしなかった。譲歩すること自体が母の強さだった。母は決して我を張ることはなかった。母の愛は、縛りつけるものではなく、解き放ち、自由を与えるものだった。

 父に腹を立てて、ぼくはアウンダにもどるために出発した。母は涙を抑えることができなかった。父と子の仲たがいを見て、かわいそうに母はただ泣くだけだった。

 ぼくは母の足もとにひれ伏し、そして父の足もとにもひれ伏した。2人の祝福を受けて、ぼくは出発した。

 不運なシャムは、母の言うことを聞かずに出発した。

 みんな!ぼくが生きている母を見たのは、それが最後だったんだ。その後、母の生きている姿を見ることは、2度となかった。ぼくはあの時、母と永久に別れることになるのだとか、彼女の甘露のような声を聞くのもこれが最後だなどとは、夢にも思わなかった。しかし、人間の望みと、神の意志とは反するものだという、この厳しい現実をぼくは経験しようとしていた。他に何と言えるだろう!