法話 2020/08/03更新

「盂蘭盆」(お盆)の意味をご存知ですか

 福岡県南部や熊本県に大きな被害をもたらした今年の梅雨がようやく明け、猛暑の季節となりました。新型コロナウイルスによる感染も再び大きな波となって押し寄せており、心配な毎日が続いています。

 8月を迎えるとともに、お盆が近づいてきたことを実感される方も多いのではないでしょうか。毎年8月13日から15日まで勤めています西蓮寺のお盆の法要も、今年は短時間でお勤めとご法話をすることとし、ご家族お揃いでの参詣はご遠慮いただくことと致しました。お祖父ちゃんやお祖母ちゃんはじめ孫さんまでご一家三代そろって毎年お参りいただいているご門徒の方が何組もおられますので、とても残念でなりません。

さて、「お盆」とは、「盂蘭盆うらぼん」という語を省略した呼びかたです。この「盂蘭盆」という語は、仏教研究者の間でも議論が続いているやっかいな言葉です。一応の定説として、サンスクリット語のullambanaウランバナの音訳で「倒懸とうけん」、つまり「逆さまに吊下げられた状態」「倒懸の苦しみを受ける」という意味だと言われています。これは、中国唐代の玄応が著した『一切経音義』(650年)によるもので、多くの解説書や僧侶によるお話しに引用されてきました。私も、この「定説」にもとづいて、お盆のご法話で「お盆とは、盂蘭盆の略で、倒懸という意味ですよ」とお伝えしておりました。

 ところが、2013年に辛嶋静志先生が「盂蘭盆」という語に新たな解釈を提示され、大きな話題となりました。辛嶋先生は、仏教学研究者の中で最もインド古代語・漢訳に精通された方だけにその説に注目が集まりました。先生の説によれば、「盂蘭」とは、サンスクリット語odanaオーダナ(ご飯)の口語形olanaを音写したもので、「盂蘭盆」とは「ご飯をのせた盆」(盆は器の意)を表すとおっしゃいます。何だか有難味が ない言葉に思えてきますね。私もお盆の法要やお参りでご法話をする時、この説に出遇って以来少々困っております。今回は「倒懸」という解釈を通してお話ししましょう。

 そもそも、なぜ「倒懸」という意味を持つ「盂蘭盆」がこんなに盛んな仏教行事となったのでしょうか。

『仏説盂蘭盆経』というタイトルの「お経」があります。このお経がいつ成立したのかはっきりしませんが、3世紀終わりから4世紀初めにかけて経典の翻訳に従事した竺法護という方が訳したとされる古い経典の一つです。梁の武帝がAD538年に「盂蘭盆会」を勤めたことが知られていますが、中国ではこのお経が大流行します。

 内容は単純で、短いお経です。

 仏弟子目連モクレンは、特殊な能力を身につけたので、両親をさとりの世界に導いて、乳をふくませて養育してもらった 恩に報いたい と思った。すぐれた洞察力により、亡くなった母親が餓鬼の世界に生まれ、骨と皮だらけになっているのを見た。悲しんですぐに鉢に飯を盛り差し出したが、母親の口に入る前に飯は火と変わり食べることができない。目連はこれを見て、大声を上げて悲しみ叫びながら仏(釈尊)にそのことを伝えた。仏は次のように言った。「あなたの母は、罪の根が成長して深くはっているからあなた一人の力ではどうすることもできない。すべての僧達の力をかりることによってその苦しみから抜け出すことができる。7月15日、僧達の修行の最後の日に、七代にわたる父母、および生みの父母の中で、災難を受けている者のために食べ物をはじめとする様々なものをすべての僧達に供養をしなさい。」と。

その日を待って、目連が供養をしたところ、僧達の力をもって、母親のみならず七代におよぶ父母が苦しみの世界より救われた。目連は、母は仏とその教えと教えを奉ずる僧達との功徳の力を身に受けることができたことを喜ぶ。仏は、「後の人々も、毎年の7月15日に親に孝を尽くす慈しみの心から生みの親を憶い、そのために盂蘭盆の法会を設け、仏ならびに僧に施し、父母が大きくなるまで養い育ててくれた恩に報いなさい」とおっしゃった。

 以上が、盂蘭盆経のおおまかな内容です。目連さんが親を探したのは、育てていただいた恩に報いるため、つまり「親への孝をつくす」ことが冒頭に述べられていることから、中国で作られたお経ではないかという説があります。しかし、「恩」という言葉は、「この身に受けた恵みを知る」というインドの言葉の訳語とされていますし、親の「恩」に報いることを大切にする話は、インドの仏教説話にも出てきますので、このことをもって中国産のお経と判断するのはどうなのでしょう。インドでできた可能性をもつこのお経において、親の恩に報いることとは、親を「さとりの世界に導くこと」とだと述べられている所が重要で注目すべき点ではないでしょうか。

 餓鬼の世界にいる母親を何とか救おうと、息子目連はご飯を器に盛って差し出します。お盆のことを「施餓鬼せがき」ともいい、「お施餓鬼さん」と呼びながらたくさんのお供えをなさる宗派もありますが、これも盂蘭盆経にみる目連の行動に由来するものでしょう。餓鬼に施物を与える話は、インドでたくさん作られています。施物を供え、餓鬼道で苦しむ人を救うという所が人々に受け、流行したのでしょうね。中国ではこの経典をもとに「目連救母伝説」としていろんな話が作られ、今では中国の京劇の題材にもなっているようです。

 さて、「倒懸」という教えをどう受け止めたらよいのでしょうか。

 私たちは、本来もっとも大切にすべきことをおろそかにし、真の依りどころとならないものばかりを追い求め、それにしがみついています。そのような私の在り方を仏の教えに照らしてみると、頭が下になり足を上にして苦しんでいる姿に見えるのでしょう。その私が、教えに出遇い真実の道理に心開かれ目覚めたとき、我欲に翻弄ほんろうされる餓鬼ではなくなり、頭を上にしっかりと大地に足をつけた「人間」として生きることを回復する。自己中心的な世界で生きていた私が、広いいのちの世界に目覚めるということでしょう。その目覚めを通して、亡き人々の「いのちのご苦労と願い」に思いを向けるところに、いつまでも亡き人とともに生き続ける世界がいただかれてくるのではないでしょうか。語源的な解釈はどうかという問題はさておき、盂蘭盆=倒懸という解釈は、仏法聴聞が私の真の姿を知る縁となることを語り続けています。