シャムチアーイー 2021/05/08更新

【未掲載版】第九話 ドゥールワのおばあさん

 「僕達の家に遠い親戚のおばあさんが一緒に住んでいた。名前はドゥワールカだった。僕の父が家を出た時に、一緒について来たのだった。彼女は田畑を持っていたが、その管理は父がしていた。彼女は父をとても可愛がっていたので、父の所に住むようになった。僕達は彼女にドゥールワおばあさんというあだ名をつけた。4カ月間、女の人達は10万本のドゥールワという草を神様にお供えする習慣がある。あるいは、10万輪のパーリジャトカの花をお供えする人もいるし、また10万輪のジャスミンの花をお供えする人もいる。10万本のドゥールワを摘むために、他の女の人達を家に呼ぶ。そして、その人達に手伝ってもらって、10万本をそろえるのだ。僕達のおばあさんは、いつでも、この仕事を手伝う用意があった。「常に正しいことの手伝いをしなさい」とトゥカラマは言う。いつも良い仕事に力を貸さなければならない。良い仕事を手伝うと言っておいて、約束を破ることは大きな罪だ。「他の人を恐がらせる人は地獄へ落ちる」ということわざがある。この仕事はうまく行きそうもないよ、君は苦労ばかりするよなどと言って、ひとをおどかす人は、地獄へ落ちる。正しい仕事をなしとげるために、人は誰でも一生懸命、努力しなければならない。僕達のおばあさんは、どの女の人のためにでも、ドゥールワ摘みの仕事の手伝いをするために出て行った。 もし誰かが、「今日は、おばあさんはどこへ行ったの?」と尋ねたら、僕達は「ドゥールワを摘みに出かけたよ」と答えるのが常だった。そうこうするうちに、このおばあさんの名前はすっかり、ドゥールワおばあさんになってしまった。僕達が大きくなってからも、ドゥールワおばあさんと呼んでいた。

 ドゥールワおばあさんには、たくさんの長所があった。夏の季節に水が少なくなると、おばあさんは深い井戸の中に降りて行って、小さなつぼに水をくむ、それを母が上から引き上げるのだった。又、夜、ひとりで農場の番もした。いつか、彼女は何人かの泥棒をつかまえたことがあった。彼女は聖なる灰を使って、マントラを唱えることが出来た。子供が病気をしたり、牛が突然、乳を出さなくなったりすると、人々はおばあさんの所に聖なる灰をもらいにやって来るのだった。聖なる灰にマントラを唱えている時、あくびが何度も出たりすると、「この呪いは大変悪い呪いだよ」と彼女は言うのだった。家畜のためには、聖なる灰だけでなく、えさにもマントラが唱えられる。そのマントラを唱えられたえさを水牛や牛に食べさせるのだ。また、おばあさんは、体の痛んでいる所に、油を上手に塗ることも出来た。誰かの足や、お腹や、背中が痛み始めると、人々は油を塗ってもらうために、ドゥールワおばあさんを呼ぶのだった。彼女がさすると、すぐに痛みはなおった。彼女の手はまるで偉大な医者のようだった。僕の目が痛んでいた時、彼女は僕のかかとに毎日、牛乳をすりこんでくれた。そうすると、牛乳は素早く吸収されて行くのだった。

 ドゥールワおばあさんは、いつも色々な種類の種を持っていた。彼女は大きな丸い箱をいつも持っていて、その中には、オクラ、バドワル、サハスラファリー、ドドウカ、チブード、きゅうり、カレティなどの、あらゆる種類の野菜の種がはいっていた。また、彼女は、すごろくや、おはじきで遊ぶのがとても上手だった。おはじきで遊ぶために、彼女はチョークで地面に完璧にまっすぐな線を引くことが出来た。全くゆがみのない直線だった。マンガラーガウル(女の人達だけの祭り)のパーティがあると、彼女は必ず出席した。男の子や女の子達に色々な遊びを教えるのも上手だった。彼女の一番好きな遊びは、シーツの下に隠れる遊びだった。この遊びでは子供達はシーツの下に隠れるのだが、相手方の子供達がやって来て、誰が隠れているのか、その名前を言うことになっていた。おばあさんは、僕達を隠れさせて、隠れている男の子や女の子が体の大きな子だったら、「もっと小さくなりなさい。体を縮めなさい」と言った。反対に、隠れている子供が小さかったら、「もっと体をふくらませなさい」と言うのだった。誰が隠れているのかわからないようにするためだった。この遊びは本当に面白かった。ドゥールワおばあさんは、神様や、神様に関する歌をとてもたくさん知っていた。10のアヴァターラ(ウィシュヌー神の化身)、チンディー、ウシャハラン、パーリジャータカなど数え切れないほどの歌を知っていた。

 ドゥールワおばあさんの、家での毎日の仕事は、野菜を刻むことだった。小さい子供達を遊ばせることも、彼女の仕事だった。その日、僕達の家ではバーズニー(色々な種類の穀物を混ぜて粉にしたもの)を作ることになっていた。バーズニーを石臼でひく事は、とても骨の折れる仕事だった。おばあさんが手伝ってくれることを当てにして、母はバーズニーを作ることにしたのだった。しかし、おばあさんは少し気まぐれだった。前の日に母は、「明日はバーズニーを作りましょう」と言っていた。ところが、その日の朝、カレーさんの家から、おばあさんを招待したいと言って来た。カレー家はおばあさんの母方の遠い親戚で、おばあさんは時々、遊びに行っていた。カレー家に限らず、彼女は村中の人のおばあさんだった。彼女はどこででも好かれていたし、誰もが彼女を招待するのだった。カレー家ではパーパッド(インドのせんべい)を作ることになっていた。それで、おばあさんを食事に招待して、パーパッド作りを手伝ってもらいたいと言って来たのだった。おばあさんは、その使いの人に、「私はうかがいますと言って下さい」と言って、帰した。

 母は腹を立てた。「それでは、バーズニーはどうなるの?どうして、ひとりで石臼がひけるでしょう」と母は思った。

 母はおばあさんに言った。「あなたは行ってしまうんですね、それでは、うちのバーズニーはどうなるのですか」

 「私はあなたの仕事をすると契約でもしましたか。バーズニーはどうなるかと言うんですね。私は石臼はひけないんですよ」とおばあさんは大声でしゃべり始めた。

 母もひどく怒って言った。「石臼はひけないって言うんですね。よその家で仕事をする元気はあるのに、家ではその同じ手が痛むんですね。村中の人にほめてもらいたいんですね。でも、ここでは何も手伝ってくれないんですね。ここで仕事をしたら、ばちがあたるとでもおっしゃるんですか。ここで、ほんの少し仕事をしたら、もう手が痛むんですね。家では痛い、痛いと言いながら、よその家では、立ちっぱなしで、ポへ(麦を蒸して、つぶしたもの)をつぶしたり、大きなつぼをかかえて水をくんだりするんですね。あなたのは、みんな演技なんですね」

 「そうですよ。私はよその家で仕事をしますよ。あなたは何の権利があって、私にそんなことを言うんですか。私はあなたの家の居候だとでも言うんですか。私は自分の田畑を持っているのよ。ヤショーダ、二度と私にこんなことを言わないでちょうだい。私はたまりません。よその家では仕事をすると、あなたは言うけれど、あなたにとってはよそでしょうが、私にとってはよそではないのよ。あなたが私にとって身内であるのと同じように、カレー家も身内なのよ。誰のことを偽善者だなんて呼んでいるの?今まで、そんなことは誰からも言われたことはありませんよ。あなたは本当に失礼だよ」おばあさんは口げんかを始めた。

 「それでは、どうして昨日、明日バーズニーを作ろうなんて言ったんですか。私は準備をして、石臼も洗ったんですよ。でも、いざ作る時になって、あなたはよそへ行ってしまうんですね。あなたはひとを見捨てて、平気なんですね。私が大変な仕事をしなければならないのに、あなたは少しも手伝ってくれないんですね」と母が言った。

 「私が手伝わないですって?ひどいことを言うにもほどがありますよ。もう、カレー家には行きません。そんなにあなたが苦にするなら、私は行きませんよ。私がみんなにほめてもらいたがっているですって?よく、そんなことが言えたものですね」

 みんな!多くの人が、家の外ではとれも親切にふるまいたがるものだ。よその家では、よく仕事をするのに、家では、たての物を横にすることさえしない。よその人の称賛や世間の評判に対して、人はとても敏感だ。家族の者を犠牲にして、よその人々の称賛を得るために必死である。しかも、それは愛情によるものではなく、ひとにほめられたいという利己的な心によるものである。これはやめるべき行為だ。母の言葉は大げさだったが、真実も含まれていた。

 母とおばあさんのけんかはいつものことで、珍しいことではなかった。しかし、ふたりのけんかは長く続くことはなかった。それは時折、起こる嵐のようなものだった。お互いの心の中にたまった毒を外へ吐き出して、汚い物が出てしまうと、また心はきれいになるのだった。嵐が来るのは静けさをもたらすためだ。病気は体の中の悪い物を焼きつくすために起こるのだ。死は再び生命を与えるためにやって来る。

 僕の母の心は穏やかになった。おばあさんはまだ、しばらくはおさまらない様子だった。「よその家では仕事をするって言うんだね。私はしたいと思う所で仕事をしますよ。あなたは私をしばったり、強制したりする権利があるんですか。どうして私のことをねたむんです。皆が私を招待するからと言って、どうして私にやきもちをやくんですか」

 母が黙っていたので、おばあさんも黙ってしまった。しばらくしてから、母はおばあさんのところへ行って言った。「私が間違っていました。言ってはいけないことまで言いました。私はあなたに文句を言う立場ではありません。あなたは目上の人です。でも、この頃、この忙しさと心配と病気のせいで、私は本当に疲れているんです。自分を押さえることが出来ないんです。まるで慎みさえ忘れてしまったようです。誰に対して話しているのかさえ、私にははっきりわかっていませんでした。こんな風に生きていて、何の甲斐かいがあるでしょう。私が間違っていました」

 「生きて何の甲斐があるだろうなんて不吉なことを言うものではありませんよ。あなたの子供達はまだ小さいんですよ。あなたが生きていなかったら、誰があの子達の面倒を見るんですか。長生きしなさい。子供達を結婚させて、お嫁さんを家に呼びなさい。馬鹿なことを考えてはいけませんよ。あなたが怒り出すと、私まで興奮してしまいますよ。そして、後になって後悔するんです」とおばあさんが言った。

 「さあ、カレーさんの家へ行って下さい。行くと伝言したのですから、行かなければなりませんよ。バーズニーは明日でも作れます。石臼も洗ったまま、きれいにしておけばいいのです。明日まで他の物をひかなければいいのですから。今日は、私はあなたにお茶を入れてあげましょう。そうすれば疲れないで済みます。今日は外はとても寒いですからね」母は心を込めて話していた。

 この頃ではお茶の葉は家に常備されているが、その頃は誰かが病気をしたり、ぜんそくが出たりした時にだけ、母はお茶を入れて飲ませていた。母はドゥールワおばあさんにポット一杯のお茶を入れてあげた。おばあさんの怒りは消えてしまった。おばあさんはカレーさんの家に出かけて行った。出がけにこう言った。「行って来ますよ、ヤショーダ。もう怒ってはいやですよ。根に持たないで下さいよ」

 「あなたこそ、根に持ってはいやですよ。何と言っても、あなたは目上の人です。私はあなたの嫁のようなものだし、娘のようなものです。私の言ったことなど忘れて下さい」

 おばあさんは出かけて行った。そして、母は家の仕事を始めた。みんな!僕の母は完全ではなかった。欠点のない人がいるだろうか。誤ちをおかさない人がいるだろうか。完全なのは神様だけだ。他のものは皆、誤ちの飾りだけを身につけて、世界の母(神)の前へ行かなければならない。誤ちは人間の飾り(特性)であり、許しは神様の飾り(特性)である。母は誤ちをおかしたが、そのつぐないもした。誤ちをおかすことにおいてさえ、彼女は謙虚だった」