古代より人々は、「火」や「灯火」にいろいろな思いを込めてきました。
インドの古代宗教の聖典は、「ヴェーダ」と呼ばれ、紀元前1200年頃から約千年の時をかけて成立しています。祭式における儀式やことばの解釈などを記した聖典の中で最も有名な『リグ・ヴェーダ』は、自然神など神々への讃歌を集めたものですが、その冒頭において火の神アグニを讃えています。
祭式においては、供物が祭火に投じられますが、その供物はアグニという火の神によって、神々の許、天界へと運ばれます。また、祭主の供物を天界へと運んだ祭火は、火葬の火ともなり、死者となった人を天界へと運びます。このようにインド古代の宗教において、火はアグニ神として、とても重要な役割を果たしています。
今年の夏は、緊急事態宣言のなか、東京オリンピック・パラリンピックが開催されました。開催に向け賛否両論ありましたが、皆さんの記憶にはどの程度残っていますか。オリンピックでは、火が「聖火」として重要な役割を果たしています。
ギリシア神話では、「火」は全知全能の神ゼウスからプロメテウスが密かに持ち出し、人間に与えてくれた、とされています。そのため、古代ギリシア人にとって、「火」は神聖なもので、古代オリンピック開催中にはゼウス神を称え、主な競技場で火が灯されていたそうで、それが現代のオリンピックまで伝わっています。
令和4年2月から九州国立博物館で、「最澄と天台宗のすべて」という特別展が開催されますが、その最澄によって建立され、親鸞聖人も20年間にわたって修行をされた比叡山延暦寺には、788年に最澄によって点され1200年以上伝えられる「不滅の法灯」と呼ばれる灯火があります。油を切らし、火が消えないように常に心がけが必要なことから、「油断」という言葉はここから生まれたといわれているようです。「法の灯火」という言葉は、浄土真宗でもよく用いられています。
福岡県八女市星野村には、平和の灯火があります。これは、原爆が広島に投下された直後に、伯父様を探しに広島を訪れた山本さんという方が、焼け跡からカイロに灯して持ち帰られた火を点されて、今日まで平和を願い光り続けているものです。
このように、人々は「火」や「灯火」に様々な役割や思いを託してきました。
仏教では、灯火は、仏さまの「智慧」を表す、智慧の象徴だとされています。浄土真宗のご本尊である阿弥陀仏は、限りない光と寿命をもって私たちをお救いくださっています。阿弥陀仏という名の由来となったアミタ(限りない)アーバ(光)は、私たちの真の姿を照らし出す阿弥陀仏の智慧を表しています。その智慧を具体的に表したものが、苦悩の中で生きるすべての生きとし生けるものを、誰一人とりのこすことなく救い遂げたいという阿弥陀仏の願い、誓願です。
親鸞聖人が最も大切にされました漢訳の『無量寿経』によれば、阿弥陀仏が法蔵菩薩という位(因位)のときに建てられた48の願いの内、33番目の願いは「わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、わたしの光明にてらされて、それを身に受けたなら、身も心も和らいで、そのようすは天人や人々に超えすぐれるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。」(『浄土三部経(現代語訳)』本願寺出版より)というものです。
阿弥陀仏の光明に遇うものの身心をおだやかにやわらかくすることを誓われたこの願いは、「身心
過ぎ行く一年を振り返り、新たな年を迎える中、お内仏にローソクの灯りを点し、念仏を申され、阿弥陀仏の光明・智慧の世界に触れるご縁をいただかれ、コロナ禍をはじめ様々な苦悩多き世を、柔軟な身心をもって歩まれますことを念じています。