近頃報恩講や永代経法要においても、なかなかお念仏の声が聞こえてこないというお話を伺いますし、私もそのように思っています。以前は、本堂からお念仏を称えておられる声が聞こえただけで、誰々さんがお参りにこられたのがわかるということもよくありました。
皆さんは、ご家族とりわけ先立たれたご縁ある方のお念仏の声を憶えておられますか。うちの祖父さんや祖母さんは、こんな声で「なまんだぶ、なまんだぶ」と称えていたなぁ、という記憶をお持ちの方もおられますでしょう。以前ご門徒の方が、「息子が前住職と今のご住職のお念仏の声を真似していますよ」とおっしゃり、恥ずかしさとともに、なんだかうれしくなったことがありました。お念仏の声が、家庭において響いているでしょうか。
最近、音声が心身にあたえる影響を研究されている音楽・音声ジャーナリストの山﨑広子さんという方のお話に出遇いました。声は、聴覚と脳と呼吸、声帯と声道などを含め多くの細かい筋肉と何千何万の神経細胞の共鳴だそうです。だからちょっとした意識が声に反映され、声を聞けばその人の人となりもある程度わかるほど声は「情報の宝庫」とおっしゃいます。
声を含め、すべての音は、音を伝える空気や水の分子を押し出すことによる「波」つまり「音波」であり、特にお寺などの木造建築では音の波が木にあたって吸収されているそうです。吸収される時に、音は熱を発しているそうで、お堂の天井とか壁とかは、みんなの祈りの声の響きを吸い込んでその熱エネルギーが何かに少しずつ変わっているように思うといわれていました。「祈りの声の響きが木造建築の木にあたって、変化をあたえる。」というお話にとても興味を持ちました。
西蓮寺の木造本堂は、創建されて三百数十年が経過しています。今日まで代々にわたり多くのご門徒の皆様やご縁ある方々が参詣され、お経や正信偈のお勤めをなさり、ご法話を聴聞されながら念仏を称えてこられました。
「念仏」について、親鸞聖人は次のように仰っています。
念仏はすなわちこれ
南無阿弥陀仏はすなわちこれ
(『教行信証』行巻 『浄土真宗聖典』註釈版146ページ)
(訳)
称名(阿弥陀仏の名を称えること)はすなわち
もっともすぐれた正しい
正しい行業はすなわち念仏である。
念仏はすなわち南無阿弥陀仏の
南無阿弥陀仏の名号はすなわち信心である。
(『顕浄土真実教行証文類』(現代語版)本願寺出版社)
念仏の道場といわれてきた本堂に響きわたる「祈りの声」ならぬ「念仏の声」が、今年も西蓮寺本堂の木々や壁に吸いこまれ染み込んでいくことを願っています。