法話 2020/10/25更新

対機説法

 コロナ禍のもと、全国のほとんどの大学では感染拡大防止のために、本年度前期に引き続き後期もまだ多くの授業が遠隔(オンライン)で実施されています。学生の皆さんも先生方も戸惑いや様々な課題を抱えつつも、遠隔という新たな方式での授業の実施に、真摯に取り組んでおられます。そのような中で、教室で互いに向かい合って行う授業「対面授業」あるいは「面接授業」ともいうようですが、これまで当たり前に実施していたその対面授業の良さも改めて感じておられることでしょう。

 仏教では、「対面」ということが大変重要視されてきました。ブッダ釈尊在世の時から数百年の間、釈尊の教えは文字に記されず、いわゆる口伝によって伝えられました。つまり、テキストはなく、教えを説く人と聞く人とが対面して伝えられていました。

 釈尊による説法の特徴として、「対機説法」という形式がよく知られています。ここにある「機」とは、法(教え)に対する言葉で、仏の教えをこうむるべき対象であり、法によって救われるべき対象を表しています。つまり「対機説法」とは、教えを聞く相手の能力・素質に対応した、ふさわしい法を説くということです。これは医者が患者の病気に応じて薬を与えることに喩えられるため「 応病与薬おうびょうよやく 」ともいわれています。

 僧侶となりご法事を勤め始めたころ、前住職(父)から「座を見て法を説かないかんよ」とよく言われていました。しかし人生経験豊富な方々を前にして、とりわけ若い頃は、なかなか難しいことでした。

 釈尊は、伝道の旅に向かう弟子に対して「二人して一つの道を行く勿れ」と言われていますが、真の教化は一人と一人との対話によって成し遂げられるということでしょう。

 仏陀にまみえた、直接対面した女性修行者(テーリー)たちのことばを集めた『テーリーガーター』という経典があります。なかでも、幼子を亡くし、腰にその子を巻き付けて、「息子に薬を!」と街中を走り回った母親キサーゴータミーとの対話は有名です。

 この経典には、裕福な家庭に生まれ、美しさのゆえに大国コーサラ国王の寵愛を受け王妃となったウッビリーのことが述べられています。王妃となりすべてに恵まれた日々を過ごしていたとき、娘ジーヴァンティー(「生きているもの」の意)が幼くして亡くなります。来る日も来る日も娘が 荼毘だび に付された場所で「ジーヴァ、わが娘、わが命」と泣き叫んでいました。彼女の前に現れた釈尊は、おっしゃいました。
母よ。数えきれぬほどの「ジーヴァ」(「いのち」という意)という娘がここで荼毘に付されてきた。汝は、どのジーヴァを憂い嘆くのか。
母の懐を去らねばならない幼な子と一人取り残されて嘆く母。それはなにもウッビリーとジーヴァンティー母娘だけに起こったことではありません。ましてや、わが子や自分の命が愛おしいという思いを抱いていても、いつかは別れねばなりません。わが子の死ということばかりに縛られていたウッビリーの心は、釈尊の教えをとおして、徐々に変わることのないこの世の事実へと解き放たれていきました。

    見えにくくも、胸に刺さったままでいた矢を、
    あなたは私からなんと抜き取ってしまわれました。
    娘へのそのような悲しみを、憂いに屈した私から、
    あなたは取り払ってしまわれました。
    今日私は矢を抜き取られ、飢え渇きの思いなく、
    すっかり心安らかになりました。
    ブッダと、教えと、修行者の集いに、私は帰依いたします。

 ブッダは、一人ひとりが抱えている苦しみに対し、その人が直面している状況とその人の能力や性質に応じて教えを説き示されました。それゆえ、多くの人が救われたことへの喜びを心に抱き、悲しみや苦しみを超えて生き抜く力を得ることができました。「対機説法」をとおして得たひとり一人の体験が、仏法の拡大へとつながっていったのです。