シャムチアーイー 2020/02/09更新

プロローグ

 多くの場合、人の偉大さは、その両親によります。その将来の人生の良し悪しは、その両親によります。その良し悪しの基礎は幼年時代に作られていきます。ゆりかごの中にいる時や、母親のそばで遊んでいる時に、将来の人生に育つ種がまかれます。

 偉大という意味は有名ということではありません。ヒマラヤの谷や野原の中に非常に大きくて天にもとどきそうな木があっても、その名を知る人はありません。林の中のあちこちに、たいへん美しい、香りのよい花が咲いていても、その花がどこにあるのかだれも知りません。海の中にまんまるい輝く真珠があっても、人にはわかりません。地中深く星のように光るダイヤモンドがあっても、人はそれを見ることはできません。無限の空の中に無数の星がありますが、大きな望遠鏡を使ってもそのすべての星を見ることはできません。偉大という意味は人に知られているということではありません。「私は正しくなっている。私は少しずつ良くなっている」と気がついている人は偉大になっているのです。人格の中に偉大になっていく傾向を作り出すのは両親です。これは、子供が両親からもらう神聖な贈り物です。両親は気づいているにしろいないにしろ、子供を小さくも大きくもするのです。

 子供が生まれる前に、その子供の教育は始まっています。母親のおなかの中に生命が宿る前に、すでにその子供の教育の準備が始まっているのです。子供が出来る前に、生活の中で両親はものを考え、感じ、そして仕事をするでしょう。そのすべてから赤ん坊の教育のもとは用意されているのです。しかし、世界の中で両親だけが教えるのではありません。まわりのすべての人々、生物、無生物も教えます。けれども、このまわりのものから、何を学ぶべきか、どのように学ぶべきかを教えるのは両親なのです。子供の教育にいちばん大きな役割を占めるのが両親です。そしてその中でも母親の役割が大きいのです。母親のおなかの中で子供は育ちます。母親と一体だった生命、まるで彼女の一部のようだった生命が生まれ出ます。外に出てからも、少なくとも幼年時代のほとんどを母親のそばで過ごします。母親のそばで笑い、泣き、食べ、飲み、遊び、そして眠ります。ですから本当に教育をしていくのは母親なのです。

 母親は体を与え、心も与えます。生命を与えるのも母親ですし、知恵を与えるのも母親です。幼児期に与えられ、身についたものは決して変わらないものです。幼年期の子供の心は真っ白です。何日ものあいだ、食べるものがなくておなかをすかした人が、手に入ればどんなものでも、うまかろうとまずかろうと、食べようと必死になるように、子供の真っ白な心はまわりにあるすべてのものを選ぶこともせず、すばやく取り入れてしまいます。幼年期の心は何でも取り入れます。土のように、また、ろうのように与えられた形を取るのです。

 母親が油気の多いものを食べると乳飲み児は気分が悪くなります。母親がさとうきびジュースやマンゴージュースを飲むと、乳飲み児の体も冷えてしまいます。それと同じように、母親が子供の前でかんしゃくを起こしたり、けんかをしたりすると、子供の心も病気になります。それなのに、このことをお母さんたちは忘れてしまいます。母親が子供のそばで話したり、歩いたり、笑ったりする、そのすべての行為は、子供の心や知恵や感情の乳(栄養)となります。子供にお乳を飲ませる時に、母親の目が怒りや嫉妬しっとで赤くなっていたら、子供の心も気むずかしくなります。

 このように両親、親戚、まわりの生物、無生物が子供を教育するのです。子供のそばではたいへん注意深くふるまわねばなりません。雰囲気を良いものに保たなければなりません。太陽や月が知っているかいないかにかかわらず、その光のおかげではすの花が咲くのは確かなことです。両親やその他の人々が知っているかいないかにかかわらず、その行いによって子供の生命のつぼみが花開くのは確かなことです。太陽や月の光のように、人々の行い、両親のふるまいが、正しく、明るいならば、子供の心も蓮の花のようにみずみずしく、香り高く、美しく、清らかに咲くでしょう。そうでなければ、虫に食われ、病気で青白く、色あせ、汚れたものとなるでしょう。

 子供の人生を悪くすることほど大きな罪はありません。きれいな泉の水を汚くすることほど罪深いことはありません。子供のそばで暮らす人たちは、このことをいつも頭に入れておかねばなりません。ヴァシシュタという名の聖人は『ヴェーダ』(バラモン教の根本聖典)の中で、ヴァルナ神(天空を司る神々の王、後には水の神となる)に言っています。
「ヴァルナ神よ、私が何か悪いことをしたならば、それについては、親たちに責任を追及してください」
「アスティ ジャーヤーン カニーヤス ウパーレ」(幼い者のそばに年上の者がいて導きます」とインドの古い言葉で述べられています)

 年上の人は自分の責任を理解して行動しなければなりません。両親、隣人、先生はみな、子供の成長のことをいつも考えて行動しなければなりません。シャムには幸運なことに偉い母親がいました。毎日彼は、自分の母親に心の中で感謝していました。ときどき泣きながら彼女のためにおまいりをしました。

 アーシュラム(集団で宗教生活を行う道場)に住んでいる友だちは、彼に生活のいろいろな出来事を話すよう何度も頼みました。でも、シャムは話しません。アーシュラムの他の友だちはみんな、生活上のいろいろな良い経験も悪い経験もお互いに話していました。友だちの話を聞いていると、ときどきシャムの目は急に涙でいっぱいになります。自分自身の同じような思い出がよみがえるからです。
「シャム、君はみんなの話を聞いているだけで、どうして自分のことは話さないの」
 と彼の友だちは、何度も言いました。

 ある日、友の再三の誘いの言葉に、シャムはのどをつまらせて言いました。
「ぼく自身のむかしのことを思い出すと、とても悲しくなるよ。むかしの自分の良いことと一緒に、悪いことも思い出すから。正しいことと一緒に間違ったことも思い出すから。ぼくは自分の欠点のひとつひとつを土の中に葬った。その亡霊がまた起きて来て、ぼくの首をしめないようにするために、ぼくは必死に努力しているんだ。生活が正しく清らかであることがぼくの願いであり、望みであり、夢なんだ。なぜ、むかしのことをぼくに思い出させるんだい。ぼくの人生はいつになったら星のように清らかになるだろう。これがぼくの憶病な願いなんだ」
「それじゃ、ぼくたちに君の良いお話だけを聞かせてよ。良い事について考えることによって人は成長すると、君はいつも言ってるでしょ」
 と小さなゴウィンダーが言いました。
「でも、良い事だけを思い出して話していたら、自分は正しいんだという慢心の気持ちが出てくるだろう」
 とビカーが言いました。
 シャムは真剣になって言いました。
「人は自分が悪くなったことについて話す時、恥ずかしくなるのと同じように。自分はこんなに良くなったとか、良くなっているとかいう時にも恥ずかしくなるものだ。たったひと言でも自慢する言葉がぼくの日から出ないよう祈っているんだ」
 ナーラーヤンは、少し笑って言いました。
「自分はいばっていないということを、いつかは自慢したくなるだろう。“ぼくは傲慢ごうまんなことを言わない”そういう時にこそ、傲慢さが出てくるだろう」
 シャムは言いました。
「この世界ではどんなに注意してもしすぎることないよ。あちこちに心をひく誘惑がある。悪くなる落とし穴がある。できるだけ注意して努力し、正直に頑張り、自分をだましてはいけない。慢心の姿はとても小さい。だからいつも気をつけなければならないんだ」
 シャムの仲の良い友だちラームが言いました。
「ぼくたちはお互い知らない者同士だろうか。君とぼくらは、まだ心が通じあっていないのだろうか。ぼくたちのアーシュラムには、今、秘密はひとつもない。ぼくたちみんなの心はひとつだ。ここにある物はみんなの物だ。君は自分の宝を隠すのかい。ぼくたちは君と言い争いをしたくない。 ぼくたちに話す時、どんな慢心が起きるっていうんだい。どんな傲慢さが出てくるっていうんだい。ぼくたちは、君の生活の精神的豊かさ、率直さ、やさしさ、愛情、甘いほほえみ、心づかい、謙虚さ、どんな仕事をする時も恥ずかしがらないということを知っている。こんな良い性質を君はどうしてもっているのだろう。話してよ。

 君もぼくたちも病人の世話をする。でもそんな時、君はまるで病人の母親のようだ。なぜぼくたちは君のようにできないんだろう。君はただにっこりほほえんだだけで他の人を友だちにしてしまう。でもぼくたちは、その人のそばに何時間座って話していても、どうしてその人の心をひきつけることができないのだろう。話してよ、どこからこの魔法を手に入れたのか。君の人生のこの良い香りはだれがつけたのか。この麝香じゃこうはだれがふりかけたのか。

 シャム、ワラーダの町の話を知っているかい。むかし、ワラーダの町の金持ちの商人がりっばな家を建てていた。そこへ、一人のネパール人が麝香を売りにやって来た。金持ちの商人はその麝香売りに値段を尋ねた。しかし、その麝香売りは嘲笑って答えた。′′南部の貧乏な者が麝香を買うんだって?どれ、売れるかどうか、プーナに行ってみよう′′それを聞いて、金持ちの商人はひどく腹を立ててこう言った。′′お前の持っている麝香をぜんぶ買い取ろう。そして壁を作る土に混ぜよう。南部の人々は爵香入りの壁を作ると、北部へ行って言いなさい′′その商人は麝香をぜんぶ買い取り、土の中に混ぜた。ワラーダのその家の壁は今でも麝香の匂いがするという。

 シャム、君の人生の壁が建てられた時、いったいだれがそこに麝香をふりかけたの。ぼくたちの生活には香りもなければ形もない。君のこの香りはどこから来たの。この色はだれがつけたの。話してよ」

 シャムはもう自分を抑えることができませんでした。
「ぼくの母がくれたんだ。みんな!ぼくの中に何か良いところがあるとすれば、それはぼくの母のものだ。母はぼくの先生、ぼくの願いをかなえてくれる魔法の木だった。母はぼくにすべてのものをくれた。くれなかったものがあるだろうか。何でも与えてくれた。愛情をこめてものを見ること、愛情をもって人と話すことを母はぼくに教えた。人間だけでなく、動物、花や鳥、そして木々をも愛することを母は教えた。どんなにつらい時でも、不平を言わず、自分の仕事をできるだけ一生懸命にすることも教えた。ふるいに残った粉からも食べ物を作ることや、貧しい時にも自分を失わずにどのように暮らすべきかも、母はぼくに教えてくれた。母に教わったほんの一部分も、ぼくは生活の中でまだ実現できていない。今でもぼくの心の土の中で、種が大きくなっている。そこから強くてたくましい芽がいつ出てくるのかぼくは知らない。ぼくの母がぼくの人生に香りをふりかけた。ぼくは心の中で言っている。′′ぼくの心の中にいつまでも住んで、ぼくの人生に良い香りをつけてください′′母は香りと色をつけてくれた。ぼくは本当につまらない人間だ。みんな母のものだ。あの偉い母のものだ。すべてはぼくの母。ああ、お母さん」

 こう言いながらシャムはのどをつまらせました。目から涙がどんどん流れ始め、感情の高まりのために、口も手も指もふるえ始めました。しばらくみんなしんとしていました。星のような気高い静けさが広がっていました。しばらくして気持ちが少し落ち着いてから、シャムは言いました。 「みんな。ぼくについては話す価値のあるものは何もない。でもぼくの母がどんな人だったかをみんなに話すよ。母の讃歌をうたってこの口を清らかにしよう。母のことを思い出して、毎晩、出来事を1つずつ話していこう。それでいいかい」
「いいとも」
 みんなが言いました。
「目を1つくださいとお願いしたら神さまが2つくださったようなものだ」
 とラームが言いました。
 ゴウィンダーは言いました。
「毎日、甘い飲み物が飲めるぞ。毎日、ガンジス川の水で沐浴もくよくができるぞ」