シャムチアーイー 2021/04/10更新

【未掲載版】第五話 自尊心を持ち続けること

「在家の人はダクシナ(宗教的儀式の際の布施)をもらってはいけない。ダクシナは僧侶だけが受け取る権利がある。というのは、僧侶には他の収入はないし、ヴェーダ(インドの古い聖典)の研究以外には仕事がないからである。だから、ブラフミンの僧侶にはダクシナをあげなければならないと言われている。外国にも、他の宗教にも僧侶はいる。政府から僧侶に給料が支払われる国もある。インドでは、一般の人々が僧侶に支払うことになっている。」シャムはお話を始めました。

「僕達の村で、ある時、結婚式があった。結婚の儀式が行われている時、ふたつの天幕、つまり、花嫁側と花婿側の天幕の中でダクシナが配られる。それぞれの経済力に従ってダクシナの学が決められる。花嫁側の僧侶と、花婿側の僧侶がふたりで一緒に天幕の中にいる人々に、ダクシナを配って回る。花嫁側と、花婿側のダクシナの額は同じだ。花嫁側が4アナー(1アナーは16分の1ルピー)であれば、花婿側も4アナー出すことになっている。手を差し出した者には誰にでもダクシナが与えられる。結婚式に行って、子供達が親達と一緒に座れば、正しい作法が自然と身につくものだ。「いいかい、私たちは手を差し出してはいけないんだよ。」親たちは子供に教えるだろう。

 しかし、この頃では自尊心は影をひそめてしまっている。ただでもらえる物なら、何でももらおうというような傾向が出て来た。日本のある会社が汽車からタバコなどを配った時、金持ちまでもがそのただのタバコをもらって吸っているの僕は見たことがある。裕福な人までもが慈善病院から薬をただでもらおうとする。金持ちの家の子供たちでさえ学費免除を受けようとする。これは心の貧しさと、他国への隷属の結果だ。

 僕は結婚式に行った。そして、子供達に混じって座っていた。僕達、学校の同じクラスの子供達は同じ所にかたまっていた。子供達が一緒に座れば、色々ないたずらをすることが出来る。お互いをからかうことも出来る。誰かの帽子の上に、やしの実の茶色い毛をのせたり、誰かのポケットに小石を入れたり、誰かをそっとつねったりといった具合だ。ダクシナが配られ始めた時、何人かの子供たちが手を差し出した。僕も無意識に手を差し出してしまった。間違ったことをしているという意識はなかった。子供の頃は、手の中にお金を持っているだけで、うれしいものだ。僕はその2アナーを持って家に帰った。喜び勇んで、そのお金を母に渡しに行った。まるで自分自身の仕事や労働の報酬であるかのように。12年もの間、マントラ(お経)を学び、宗教儀式を司る僧侶こそ、ダクシナをもらう権利がある。僕にとってその2アナーをもらう権利がどこにあっただろうか。人はだれでも働くべきだ。そして、それに対して報酬を得るべきだ。そうであればこそ、ふさわしい。

 母が尋ねた。「そのお金はどうしたの?」僕は答えた。「結婚式でもらったんだよ。」母は急にドキッとしたようだった。彼女の顔は青くなった。「私達は貧乏になってしまった。私達が貧しいから、子供はダクシナをもらったのだろうか。それとも私達が貧しいから哀れんで、僧侶は子供の手のひらにお金をのせたのだろうか。名門の家の子供が手を差し出したら、僧侶は、『お馬鹿さん!君は手を差し出すべきかな。君はドンガレ家の子供だろ。』という風に注意してくれるはずなのに。私の子供には僧侶はどうして注意してくれなかったんだろう。多分、私達のことを哀れんでいるのだろう。世の中で他人に哀れまれることほど惨めで悲しいことがあるだろうか」母の心の中に、このような何百万もの重いが、この時去来していた。母はただ茫然と立ちつくしていた。

「お母さん!このお金を受け取ってよ。僕、盗んできたんじゃないよ。」僕は心配になっていった。
 母が言った。「シャム!私達はどんなに貧しくても、在家の人間なのよ。私達は僧侶の家の出ではないのよ。僧侶の仕事をしてはいないでしょ。私達はダクシナをもらってはいけないのよ。私達の方があげる立場なの。僧侶はヴェーダの研究をして宗教の仕事をするわ。彼らは田畑を持たないから、このダクシナだけが彼らの収入なのです。」
 僕は言った。「僕たちの村のあの僧侶のパンドゥさんは何て金持ちなんだろう。あの人もダクシナをもらっていいの?金貸しもしてるし、田や畑も持っているよ。彼はどんな種類の僧侶なの?」

 母が言った。「それは彼が間違っているのです。昔は、僧侶がダクシナをたくさんもらったら、貧しい人たちに分け与えたものです。家に子供達を預かって教育を与えたものです。あのマハーバーラタ(インドの古い叙事詩)の中に書いてあるでしょう。『ナラ王は僧侶にたくさんのお金を与えた。そのお金を、僧侶は帰る途中、人々に分け与えた。』と。昔は、聖人の家には、たくさんの子供達が勉強のために寄宿していたのよ。私達は在家の人間よ。ダクシナをもらう立場ではないわ。もう二度と手を差し出しては駄目よ。ロヒダス王子は旅人のために用意されている水さえ飲まなかったわ。在家の人は人々に与えなければいけないの。もらってはいけないのよ。」

 母は、その2アナーを近所に住んでいるバールーという名の召し使いに与えた。みんな!世間の人からもらえば、もらうほど、僕達は負い目を持つことになる。僕達は惨めになる。人の顔色を見て暮らさねばならなくなるからだ。惨めな気持ちで生きることは罪だ。威張って傲慢な気持ちで生きることも罪だ。世間の人々に頼って生きるべきではない。ヨーロッパではこの自尊心についての教育が子供時代から与えられる。両親のお金に頼って生活することさえ、ヨーロッパでは恥ずかしいことであり、不名誉なことだと考えられている。アメリカ合衆国のフーバー大統領についてこんな話がある。彼は自分の13歳になる息子日雇いの労働に出した。フーバーはその時、豊かなアメリカ合衆国の大統領だった。しかし、その同じ時に、彼のこの幼い息子はある煉瓦れんが職人のもとで仕事をしていたのだ。ビルの建築中に、その少年は高いところから落ちて死んでしまった。フーバー氏は悲しいんだが、しかし、次のように語った。「私の国に、自立と労働のとうとさを教えるために、私の息子が死んだのです。」

 自立は西洋における教育の基礎だ。自立によって、人は顔を上げて堂々と生きることが出来る。他人にばかり頼っていては、下を向いて生きなければならない。労働をすることなしに、何かをもらうべきではない。また、労働しない人に何かを与えるべきではない。もらう者も、与える者も、どちらも地獄へ落ちると、トウカラマ(有名な聖人で、多くの詩を残した)は言う。怠惰な人を養う人も罪深いし、怠惰な人自身も罪深い。怠惰な人に、僕達が何かをあげたら、その人は僕達に負い目を持ち、惨めな気持ちになる。そして、僕達はその人に対して、おのずと優位に立ち、威張った気持ちになる。そうならないように、その人に何か仕事をしてもらうべきだ。まきを割ってもらったり、洗濯をしてもらったり、地面を掘ってもらったり、何か仕事をしてもらうべきだ。そうすることがその人を真の意味で救うことになる。仕事もしない人をただ養うのは神への冒涜ぼうとくだ。自立、自尊心、労働のとうとさは、今、ロシアで教えられている。最近、あるアメリカの心理学者が、ロシアを訪れた。ロシアの状態、ロシアの外的・内的変化を視察するために行ったのである。彼は労働者に配るために、万年筆、チョコレート、きれいなナイフなどの贈り物を持って行った。労働者の居住区に行って、彼は人々に贈り物として、それらを配り始めた。しかし、ひとりとして、手を差し出すものはなかった。誰も品物を受け取ろうとはしなかった。彼は言った。「さあ、受け取って下さい。私は愛をこめて贈っているのですよ。」労働者たちは答えた。「自分自身の労働によって、手に入れるべきです。贈り物でも、他の人からもらえば、恐らく、怠惰や、卑屈さや、依存の心が出て来るでしょう。これらの悪徳に、少しのすきも与えまいと、私達は心に決めているのです。」

 そのアメリカの心理学者は、その素晴らしい思考革命に驚いた。昔、何十万もの労働者が、物をもらうために手を差し出していたのに、その同じロシアで、今はひとりとして手を差し出す者がいない。何という自立、何という輝かしさ、何という労働への信仰だろう。

 労働の中にのみ、魂の救いがある。ただで受け取ったり、ただで与えたりするのは堕落だ。このことがインドの子供達、インドのすべての人々に理解される日は、大いなる日となるだろう。家庭でも学校でも、このことが教えられなければならない。食べ残しを誰にも与えてはならないことを宗教的原則とすべきだ。真の宗教は、労働に意欲を与えるものであるはずだ。怠けていて物乞いをする人も、金持ちであるためにベッドの上でごろごろして食べるだけの人も、どちらも虫けら同然だ。なぜなら、金持ちも他人の労働に頼って生きているし、怠惰な乞食も他人の労働による食物をもらっているからだ。どちらも、社会という木に宿る寄生植物だ。炎天下で働く人、道路を掃除する人、屎尿しにょうを処理する人、死んだ牛を解体する人、靴を作る人、このような働く人々は皆、何もしないでただ食べるだけの人に較べて、はるかに貴く、偉大である。何かを産み出すこと、新しい考えを生み出したり、作物を栽培したり、清潔さを創り出したり、何かすばらしいもの、何か美しいもの、何か役立つものを創り出して見よう。そうすればこそ、生きる権利が出て来るんだ。社会を作り、守り、発展させる労働を人々が尊ぶような国は繁栄するだろう。そうでない国は滅びるだろう。

 僕の母は僕に自尊心を教えた。他人に依存することは死に等しいと教えた。人から物をもらってはいけません、自分からあげなさいと教えた」