シャムチアーイー 2021/05/01更新

【未掲載版】第八話 味のないおかず

 ラージャとラームは川のふちに行っていました。大きな岩の上にふたりは座っていました。「ラーム!僕はここを立ち去りたくないよ。ここのこの川、この景色、この孔雀くじゃく達、これらを見ていると、何て楽しいんだろう。でも、中でも一番大きな喜びは君が一緒にいることだよ。シャムのお話も聞くことが出来るからね。僕はあのお話が大好きだ」

 ラームが言いました。「あれは物語と呼ぶべきだろうか、それともお説教と呼ぶべきだろうか。講義と呼ぶべきだろうか、それとも思い出話しと呼ぶべきだろうか。僕にはわからない。聞いているうちに喜びが満ちあふれてくるし、励まされるんだ」

 ラージャが言いました。「シャムが話す時、その話には彼の清らかな心が込められている。だからこそ、彼の話しにはある特別な快さとやさしさがあるんだ。だから人工的な技巧の跡さえないんだ」

 「しかし、人工的な技巧がなければ、一般の人々は気に入らないよ。この頃の人々は人工的な技巧を好むんだ。お金が純銀で出来ていたら、流通しないだろう。少しばかり、不純なものを混ぜる必要があるんだ。そうすれば良い響きがするし、流通もするんだよ」とラームが言いました。

 「僕は心の中にある考えがあるんだ。君に話そうか。君は笑うだろうな」とラージャが言いました。

 「話してよ。僕は笑ったりしないよ。僕はひとの心からの感情を笑ったりしないよ」とラームが言いました。

 「シャムのこの思い出話を出版してはどうだろう。子供達は読んで好きになるだろう。女の人達も好きになるだろう。親達が読めば、とても役に立つと思うよ。シャムの話にはコーカン地方の文化が満ちあふれている。この思い出話しは文化の美しい描写だ。そうだと思わないかい?」とラージャが尋ねました。

 「でも出版するのは、シャムがいやがるだろう。彼は自信がないんだ。誰がこの種の物語を進んで読みたがるだろう。人々は英雄の話や恋物語を望んでいるんだ。『ライラとマジュヌー』のような恋物語を望んでいるんだと、シャムは言っているよ」とラームが言いました。

 彼らがこのように話している時、鐘が鳴りました。それはお祈りの鐘でした。ふたりの友達はアーシュラムに向かって歩き始めました。シャムはラージャが来るのを待っていました。ラージャとラームがふたりそろって来るのが見えました。「今日は僕を誘わなかったんだね。ふたりだけで行ってしまったんだね」とシャムが尋ねました。

 「君は本を読んでいただろう。だから誘わなかったんだ。一日中、他の仕事があって、やっと少しの暇を見つけて本を読んでいるんだから邪魔をしてはいけないと思ったんだよ」とラージャが言いました。

 「僕がそんなに読書好きだと思っているのかい。僕はただの本ではなく、世界という大きな本を読みたいんだよ。人間の人生を読みたいんだ。心を読みたいんだ。その中の喜びや悲しみを知りたいんだ。これこそが本当の読書だよ。そうじゃないかい」とシャムが言いました。

 「シャム!君はたくさんの本を読んでいるから、そんなことを言うんだよ。自然という本を読むには練習が必要なんだ。詩人は農夫の喜びを上手に表現する。しかし、農夫自身は自然を本当に楽しむことは出来ない。なぜなら、自然を見る目がないからだ」とラージャが言いました。

 その時、再び鐘が鳴りました。人々は皆、お祈りのために座りました。お祈りが終わると、シャムはいつものように思い出を話し始めました。

 「みんな!ひとの話を何百回聞いても、また、たくさんの本を読んでも、得ることの出来ない教訓を、実際の経験を通して得ることが出来るものだ。実際の行為は無言のうちに語りかけるものだ。この無言の語りかけは言葉よりも効果がある。

 どのように食事を取るかについてさえ、僕達は文化を持っている。僕の父はいつも言っていた。「自分のお皿の方を見て食べなければならない。お皿の上にまだ食物が残っているのに、その上にまだ欲しがってはいけない。お給仕をする人が来た時に、ついでもらいなさい。順番にみんなにお給仕してくれるのだから、自分の番が来た時についでもらえるのだから、がつがつしてはいけない。御飯つぶをお皿から落としてはいけない。お皿の上には何も残してはいけない。料理について色々と苦情を言ってはいけない。お皿の中に髪の毛などがはいっていたら、黙って取り除きなさい。そのことを人に言ってはいけない。つまみ上げて見せてもいけない。他の人まで気分を悪くさせることになるからだ。何か害になるような物が見つかった時だけ、言いなさい。ていねいに食べてお皿をきれいにしておきなさい」この言葉通り、父は自分自身、実践していた。僕は色々な人が食事をしているところを見たが、父ほどに食後のお皿がきれいで清潔な感じのする人を見たことがない。このお皿で誰か食べたのかしらと迷うほどだった。彼のお皿のまわりに、もしも御飯つぶが落ちていたら、父は怒って言った。「お前はマトゥリー(使用人の名)の家のにわとりが養える位の御飯つぶを落としているね。拾い集めなさい」「これはまずい、ひどい出来だ、ちっともおいしくない」このような苦情を父は一度も言ったことがなかった。彼は何でもおいしく食べた。彼はいつも決まって、「すばらしくおいしい!」と言った。「おかずはいかがでしたか?」と誰かが尋ねたら、彼の答えはいつも、「すばらしい出来ばえだよ」だった。料理おについて、彼はどんな不満も言わなかった。

 ある日の出来事を僕はとてもよく覚えている。毎日、父は家にある神様の像に礼拝をした後、お寺へ出かけて行った。彼が出かけるとすぐ、僕達はコップやお皿を並べて食事の準備をした。御飯以外のすべての料理をついでおいた。そして戸口に立って、父が帰って来るのが遠くに見えたら、母に合図を送った。

 「お母さん、バウが帰って来たよ。バウが帰って来たんだよ。御飯をほぐしてよ」父はお寺から帰る時、ガナパティ神を洗った聖なる水を持ち帰った。それを僕達が少しずつ飲んでから、食事が始まるのだった。

 その日も、僕達は食事の席についていた。母はさつまいもの葉の料理を作っていた。僕の母はどんな料理でも作ることが出来た。かぼちゃの葉、おくらの柔らかい葉など、どんなものでも料理することが出来た。彼女はよく言っていた。「赤とうがらしの粉と塩と煮たった油で作るフォドニー(インドのソース)があれば、どんな物でもおいしくなるわ」そして、それは本当においしかった。母が作るものはどんなものでもおいしかった。まるで彼女の手には料理の女神が住んでいるかのようだった。彼女は料理がおいしくなるように心の中のあるったけの愛情を込めて作った。やさしさの海が誰の心の中にもあるものだ。

 しかし、その日はおかしなことが起こった。その日のおかずには塩が全くはいっていなかった。母は料理に塩を入れるのを忘れたのだった。仕事の忙しい手順の中で彼女は塩を入れ忘れてしまったのだ。しかし、父がそのことについて言わないので、僕達も黙っていた。父の自制心は見事なものだった。まるでアースワードウラタ(味のついたものを食べない行)を実行しているかのようだった。母が料理をさらにすすめるために持って来ると、父は言った。「この料理は何手おいしいんだろう。」父はお皿の上にのせてある少量の塩(塩を少し皿にのせておくのはインドの習慣)さえ、料理に混ぜなかったし、塩をもっと入れてくれとも言わなかった。もし、父が塩を持って来るように言ったなら、母もおかしいと気づいただろう。父が料理を食べていたので、僕達も少しずつ食べていた。僕達も塩を下さいとは言わなかった。

 母が僕に言った。「あなたはその料理をあまり好きじゃないの?いつものように食べないのね」

 僕が答えるよりも先に、父が言った。「この子は今、英語を習い始めているものだから、さつまいもの葉の料理なんてもう、口にあわないんだよ」

 僕は言った。「そんなことないよ。英語を勉強して性格が悪くなるんだったら、僕は勉強なんてしたくないよ。どうして習わせたりするの?」

 父が言った。「おや、おや、お前を怒らせようと思ってわざと言ったんだよ。お前が腹を立てたので安心したよ。シャムはジャックフルーツの料理が好きだったな。明日、パティルワディの所からもらって来よう。熟したのがあれば黄色い部分を煮ておくれ」

 母が言った。「是非持って来て下さい。ずい分長いこと、ジャックフルーツの料理を作りませんでしたからね」このようにおしゃべりをしながら食事が終わった。父はヴェランダの方へ行って、ウィシュヌーサハスラナーム(ウィシュヌー神の讃歌)を唱えながら、それにあわせてゆっくりと歩き始めた。それが終わると、糸をつむぎ車を回して、宗教次式に使う糸をつむぎ始めた。それは陶器の糸つむぎ車だった。誰でも糸をつむぐことが出来なければならなかった。

 後片付けが終わって、母は食事の席についた。(インドでは主婦は最後に食事をする習慣だった)彼女が料理を一口食べてみると、何とそれは味のない料理だった。塩が全くはいっていなかった。僕は母のそばにいた。

 母が言った。「まあ、シャム!お料理に塩が全然はいっていないじゃないの。あなた達は誰もそう言わなかったのね。シャム、言ってくれればよかったのに。味のついていない料理をどうして食べたの?」

 僕は言った。「バウが何も言わなかったので、僕達も黙っていたんだよ」

 母は気にしていた。「みんな、塩の入っていない料理を食べたのね」と彼女は言った。母の心は暗くなった。母は続けて言った。「だから、あなたはあまり食べなかったのね。そうでなかったら、あなたはたくさん食べるはずだもの。あなたがひとりでおかずの半分はペロリとたいらげるはずだもの。おいしい料理には目がないんだから。あの時、私は気づくべきだったんだわ。でも、今、後悔して何になるでしょう」

 大きな失敗をしてしまったと母は思った。何かを作って人にあげる時は、良い物を作ってあげなければならない。食べ物なら、おかずであれ、他のものであれ、おいしい物を作ってあげなければならない。「塩のはいっていないおかずをみんなにお給仕してしまった。失敗をしてしまった。不注意だった。仕事を念入りにしなかった。ひどいことになってしまった」このように母はくよくよしていた。彼女の心は重かった。

 母が気に病まないようにと、父は何も言わなかった。大変骨を折って、かまどのそばの煙の中に座って作ってくれた料理だから、おいしく食べよう、不平を言うべきではない、料理をした人の心を傷つけるべきではないというのが父の考えだった。

 みんな!他の人の心を傷つけないようにと、何も言わずに、塩のはいっていない料理さえ舌鼓したつづみを打ちながら食べる僕の父が偉いのだろうか、それとも、「なぜ塩のはいっていない料理など作ってしまったのかしら。あなた達は誰も教えてくれなかったのね」と言って、おいしい料理を作れなかったことをとても気にしている僕の母が偉いのだろうか。どちらも気高く偉いのだと僕は思う。インドの文化は自制心と満足を知る心によってなっている。それと同様に、物事を最高の状態に作りあげようとする気持ちによってなっている。このふたつの教訓を両親は僕に与えてくれた」