法話 2021/05/16更新

思惟する時

 コロナウイルス感染症の拡大が続き、福岡県にも緊急事態宣言が発せられました。 勤務校では、昨年度の卒業式を何とか無事に終え、前年度の入学生も含めた2021年度入学式を挙行し、9割近い授業を対面で行っていました。しかし、宣言の発令とともにほとんどの授業を遠隔で行うこととなり、再び学生はキャンパスで過ごす時間が少なくなりました。変異株ウイルスによる感染者が増え、再び不要不急の外出を自粛するよう求められる中、皆さんも大変な日常をお過ごしのことと存じます。お寺での行事や研修も、中止や延期がまだまだ続くようです。

 今年度の入学式における式辞の中で、新入生に対し次のようなメッセージをお伝えしました。

 様々な情報に追われ、SNSの対応などに迫られる日々の中で、深く物事を考える時間を持っていただきたい、静かに落ち着いて考える時間、「思惟しゆいする時」をもってほしいということです。皆さんが物事をじっくりと考えているときは、どのような姿勢、姿をとっていますか。腕を組む、上を向く、顎に手をあてるなど様々でしょう。

考えている人の姿を造形作品として表したものといえば、皆さんの多くがロダンの考える人の姿を思い浮かべることでしょう。岩の上に座り、両足をぐっと引き寄せ、拳を歯にあて、やや背中を丸めた姿勢で考えています。全身の筋肉から緊張感がみなぎっています。

「実り豊かな思索が彼の頭脳の中でゆっくりと確かなものになってゆく」とロダンは述べています。

 同じ考えている姿を表現した造形作品に「半跏思惟像」と呼ばれる仏像、菩薩像があります。本年3月21日まで、大学のすぐ傍にあります九州国立博物館に、奈良中宮寺の国宝である「半跏思惟像」が展示されていました。飛鳥時代七世紀に造られたこの像は、片足を反対の足の腿に置き(半跏はんか)、背筋が伸び、右手中指を頬にあて、思惟する姿を現しています。そのお顔には、微笑みをたたえています。苦悩する人々をいかにして苦しみから救い遂げるか、永い永い時間をかけて思惟する姿です。

 全く異なる時代と地域で作られた対照的な「考え・思惟する」姿がなぜそのような表現をとり、人々の心を引きつけ、魅了するのでしょうか。その答えを探し求めることが、大学で学ぶことの楽しさや喜びにつながります。

 パンデミックにより実感させられている、思い通りに生きることができないというこの経験をどう活かし、また、未来に向け持続可能な社会を創造するために、今何をなすべきか。思惟すべき課題は皆さんの前にいくつも横たわっています。姿や場所はどうであれ、「思惟する時」をもつことを、ぜひ大切にしてください。

 以上が、私から新入生へのメッセージです。

 親鸞聖人が最も大切にされた『仏説無量寿経』の冒頭には、法蔵菩薩がいかにして苦悩する衆生を救いとげようかと、「五劫」という気が遠くなるような永い時間をかけて思惟されたと説かれています。聖人による「正信念仏偈」では、「五劫思惟之摂受」と表されています。その思惟の上で、教えに向き合うことなく悩み苦しむものたちを救う手立てとして、四十八よりなる願い(誓願、本願)を選び取られたということ(摂受)です。

 外出もままならならず、お聴聞のご縁をいただくこともかなわない毎日がしばらく続きますが、思い通りにならない娑婆をどう生きるべきか、これからどのような社会になったらよいか、などと「思惟する時」を持たれてはどうでしょう。