法話 2021/09/21更新

二河白道の喩え

 台風一過の青空のもと、稲刈りがすんだ田のあぜ道のあちこちに彼岸花咲く中、秋の彼岸を迎えました。

 お彼岸にお伝えしますお話として、「二河白道にがびゃくどう」の喩えがあります。「二河」とも表現されるこの話をもとに描かれた絵を、ご覧になった方もおられるのではないでしょうか。西蓮寺でも春秋のお彼岸には、門徒会館に軸画を懸けています。

 7世紀中国の高名な学僧に、善導大師という方がおられました。善導大師は、「信心」を守護するためにこの喩えを説かれたと言われています。浄土真宗の教えの核心であります信心とは、阿弥陀如来の智慧と慈悲のお心である南無阿弥陀仏が私の中ではたらいてくださっている、迷いの人生を送っている私を何とかしなければならないという阿弥陀如来の願い・び声が私にとどいていると気が付くことだと言われています。信心ということを私たちが保っていくのは、非常に難しい。その信心を保つことの難しさを説くために、この喩えが述べられています。

 善導大師を敬われ、その教えをとても大切にされた親鸞聖人は、主著『教行信証・信巻』において、以下のようにこの喩えを詳しく引用しておられます。

 一人の人が荒野をさまよい始めていました。広い野原を西に向かっていきますと、突然後ろから盗賊とか怖い獣とかが追いかけてきます。必死で逃げながら正面を見たら、北側に河の水がとうとうと流れています。南側には火の河が流れているのです。それぞれに幅が百歩の深くて底がない果てしない河です。どうしようと迷っても、盗賊や獣が来ているわけですから後ろにはさがれません。北は水が激しく流れ、南は火が盛んに燃え上がっている。後ろにも前にも行けない。そのとき、よく見ると、その火と水の間を四、五寸(12~15センチ)くらいの細い白い道が見えました。その道を通りたいと思ったのですが、何しろ細い道です。しかも常に波がその道に打ち寄せています。

 進むことも退くこともできないという状況の中で、突然声が聞こえて来ました。その声は、東の岸より勧める声。西の岸より招き喚ぶ声というふうに表現されています。東の岸とは迷いの娑婆世界を、西の岸とは悟りの極楽世界を表しています。東の岸にいる人に「きみただ決定けつじょうしてこの道を尋ねて行け、かならず死の難なけん」、死ぬことはないから行きなさい、という声が聞こえてきた。そなたは戸惑うことなく躊躇することなく、ただこの道をたどって行け、決して死ぬことはない「進みなさい」という声です。これはお釈迦様の、発遣という、東の岸より勧める声です。

と同時に、西の岸からは、「なんぢ一心に正念にしてただちに来たれ、われよくなんぢを護らん」。そなたは一心に戸惑うことなく真っ直ぐに来るがよい。私がそなたを護ろう、という招き喚ぶ声が聞こえてきました。これは、大いなる慈悲の心をもって浄土へ来たれと招き喚ぶ阿弥陀仏の「悲心召喚」の声と記されています。こちらの岸からの「行きなさい、大丈夫だよ」と勧める声を、向こう岸からの「来なさい、必ず護ってあげるから」という招き喚ぶ声を信じて、その人は白い道を渡り始める、という喩え話です。

 この喩え話に出てくるそれぞれは、何を示しているのでしょうか。一人の人を追いかけている盗賊や獣とは、私たちに迫ってくる様々な苦しみを表しています。私たちが持っている感覚器官からいろんなものを受け入れていく中で起こってくる、様々な精神的な在り様を示しているかもしれません。水と火というのは、私たちが持っている欲望です。むさぼりや執着の心を水に、怒りや憎しみの心を火にたとえています。このような欲望や煩悩は一生消えることはないのです。それら二河の間にある「四、五寸ほどの白い道」というのは、人のむさぼりや怒りの心の中に、清らかな信心がおこることをたとえたものです。むさぼりや怒りの心は盛んであるから水や火にたとえ、信心のあり様はかすかであるから四、五寸ほどの白い道にたとえてあるのです。「波が常に道に打ち寄せる」とは、むさぼりの心や怒りの心が常に起こって、信心を汚し、焼こうとする日頃の私たちの心の在り様をたとえたものです。

 欲望や煩悩に常に覆われながらも、勧める声・招き喚ぶ声を信じ、白い道を歩み続けるならば、必ず彼岸に渡ることができるという世界を、この「二河白道」の喩えは表しています。インターネットで検索されますと、この喩えのいろいろな解釈や画をご覧になれます。ぜひ、お彼岸中に。